大正期の大台ヶ原原生林開発
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~千萬の黄金眞玉をいただきつヽ知らす顔すな三縣の人~ |

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<D4>大蛇嵓下を通そうとしたトンネル跡
(2015年、大台ヶ原パークボランティアの会で、管理者の許可を得て調査) |
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<大正期の大台ヶ原原生林開発 ~その木材運搬ルート3~> |
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【山手線出発点(白崩貯木場)― 大蛇嵓トンネル跡・蒸籠嵓トンネル跡】 |
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「秋の大台山」伊勢新聞連載記事(大正11年)漕濱生記者【その5】
午後四時頃トロッコをその終点元木谷(「白崩」の間違いか?)の貯木場で降りた。このへん一帯は吉野郡上北山村に属し一行はもうすでに三重県境を踏破して奈良県に入っていたのである。伐採された多数の材木が蓄えられてある、ここから上ること更に1,2丁頂上まで達するインクラインが設けられている。 |
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2015年、大台ヶ原パークボランティアの会で、管理者の許可を得て元木谷を調査したところ、トロッコ軌道山手線の出発点である白崩貯木場と推測できる場所は、現在、大きな裸地となっている。ここには、「伐採された多数の木材が蓄えられてある」と伊勢新聞の記者が報告しているが、元木谷挽材工場から牛石ヶ原付近を経て、白崩貯木場に至るインクラインが施設されていた。大きな裸地は、貯木場跡でもあったようだ。
この裸地の真ん中に蛇抜けの跡があり、その西側には磁器やビンの破片など生活の痕跡が散在している。建屋の基礎跡を探すが、コンクリートの基礎などそうした痕跡は見当たらない。
岩井谷から登ってきた山手線軌道は白崩木材集積所が終点であるが、元木谷に伸びるインクラインとは別に、その先もトロッコ道跡が西に延びており、谷を渡る箇所には石積みの橋脚が残っていたり、切り通しなども見られる。そして、最終的に、大蛇嵓に近いところでトンネル跡にたどり着く。トンネルは、砂岩の岩盤で10m程度しか掘られておらず、掘りかけのまま放置されたようだ。また、掘りかけのトンネル跡は、もう一ヶ所蒸籠嵓南壁にも残っている。
「大台ケ原山木材搬出道路新設許可一件」(1918年/大正7)という奈良県立図書情報館に保管されている公文書には、奈良県内のトロッコ軌道の工事計画図が示されている。申請書の提出は大正6年夏で、認可は大正7年3月におりているが、計画書では、牛石ヶ原経由のインクラインではなく、前述の掘りかけで放置されたトンネル跡2ヶ所を経由するルートが示され、その先は、シオカラ谷に下りる現在の登山道と交差(標高1500m付近か?)する路線を計画していたようだ。しかし、2つのトンネルは未完成に終わっており、『三重県の森林鉄道-知られざる東紀州の鉄道網-』では、調査の結果、以下のとおり推察している
「四日市製紙資料によると、奈良県側のこの区間は藤村繁太郎率いる藤村組が入札により受注していた。しかし、建設途中で資金が不足して四日市製紙に何度か内渡金を請求している。それにつき四日市製紙側の内部文書には担当者と上司との間で、工事進捗状況と比較して内渡金は認められないというやりとりがあり、それでも担当者はこの内渡金が認められなければ、藤村組は資金が枯渇して夜逃げする可能性を伝えている。
最終的に藤村組が夜逃げしたか、それとも四日市製紙側と和解したのかは不明であるが、翌年、藤村組は山を降りて、空いた建設小屋には代わりにトロッコ運搬を請け負った平井組が入っている。これらからすると大蛇グラ・蒸篭グラの隧道工事は建設費が予想以上に嵩んだため貫通することなく中止になったということが分かる。」 |
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「大台ケ原山木材搬出道路新設許可一件」(1918年/大正7)奈良県立図書情報館蔵 |
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【山手線出発点(白崩貯木場)―(インクライン)― 牛石ヶ原 ―(インクライン)― 元木谷(挽材工場)】 |
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「秋の大台山」伊勢新聞連載記事(大正11年)漕濱生記者【その5】
(ここから上ること更に1,2丁頂上まで達するインクラインが設けられている。)これに便乗して瞬く間にギリギリ引き上げられて山頂の人となった。あたりを見ればこのような山頂には珍しい熊笹に覆われた草原が展開して、普通の山容と異なる一種の独特ないわゆる大台ヶ原の大台ヶ原たる山姿に接すると共に、そこからは十数年盛んに伐採された森林痕跡が歴々として目に映る。
そうしてインクラインの終点である挽材工場に着いた。それより熊笹の間に丸太木材を並列して作った十数丁の仮道を薄暮の間に発見して、用心深く一歩一歩を踏みしめつつ之をたどった。前途を急いだのは日暮れで道遠きの感があったからである。そうして山上にある大台教会に着したのは四辺が暗澹として人の顔が判別しにくい午後6時すぎであった。 |
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当初、大蛇嵓・蒸篭嵓をトンネルで経由するルートを計画していたが、前述の理由で工事がストップし、代替案として白崩貯木場から牛石ヶ原を経て元木谷に至るインクライン輸送に変更した。「北山東ノ川水利利用計画変更図面」大台水力株式会社(奈良県立図書情報館蔵)などで、インクラインが元木谷から白崩まで一直線に伸びていたことが分かる。
2015年、大台ヶ原パークボランティアの会で、環境省の許可を得て元木谷を調査したところ、シオカラ谷に元木谷が合流する河川敷には、かつて、インクラインの起点となる元木谷起動所や挽材工場と思われる大きな裸地が広がっていた。また、そうした建屋の基礎部分や護岸のための石積みもみられた。トロッコのレールや車軸付き車輪も散在し、さらに、鉄製の鍋やビン・茶碗の破片など当時の生活ゴミも放置されたままとなっていた。元木谷起動所跡はシオカラ谷に沿って縦長に区画されており、最も川下の元木谷が合流するところで敷地の区切りとなっている。元木谷の対岸にも平地が見られるが、元木谷の上流を見ると左岸側に、切り通しのような窪地が一直線に伸びており、インクラインの軌道跡と推測した。
先の図面にしたがって、地形図上で元木谷起動所と白崩貯木場間に直線を引くと、その直線上に牛石ヶ原荷卸場が推定される。牛石ヶ原荷卸場については、大正11年に三重県知事に随行した伊勢新聞の記者が、「これに便乗して瞬く間にギリギリ引き上げられて山頂の人となった。あたりを見ればこのような山頂には珍しい熊笹に覆われた草原が展開して、普通の山容と異なる一種の独特ないわゆる大台ヶ原の大台ヶ原たる山姿に接すると共に、そこからは十数年盛んに伐採された森林痕跡が歴々として目に映る。」と記述している。この「山頂」こそ牛石ヶ原荷卸場と思われ、当時すでに周辺の森林は伐採され、笹原(熊笹とあるがミヤコザサか)が広がっていた。現在もあまりかわらない風景だが、牛石ヶ原荷卸場の痕跡を探すものの、建屋の跡などは見あたらない。ちなみに、神武天皇像や牛石のある現在の牛石ヶ原ではなく、尾鷲辻~牛石ヶ原間の歩道上に、環境省が設置した標識Y-13の立っているあたりである。四日市製紙の資料の中には、元木谷起動所や元木谷インクライン、牛石ヶ原荷卸場の写真が残っており興味深い。
知事一行は、「丸太木材を並列して作った十数丁の仮道を薄暮の間に発見」して宿泊地の大台教会を目指している。現在、元木谷起動所があった地点と大台教会(もしくはビジターセンター)を直接結ぶ歩道はないが、当時は、元木谷にも飯場があったと思われ、最短道があったのかもしれない。 |
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【参考文献】
★『三重県の森林鉄道-知られざる東紀州の鉄道網-』片岡督・曽野和郎著
★『伊勢新聞』大正11年(1922年)10月21日~29日連載記事「秋の大台山」漕濱生記者
★『大臺か原登山の記』吉野郡役所・大正7(19191)年
★『太陽」大正5年8月号に掲載された白井光太郎講演録
★「北山東ノ川水利利用計画変更図面」大台水力株式会社(奈良県立図書情報館蔵)
★「大台ケ原山木材搬出道路新設許可一件」1918年/大正7(奈良県立図書情報館蔵) |
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