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大正期の大台ヶ原原生林開発 2
〜千萬の黄金眞玉をいただきつヽ知らす顔すな三縣の人〜

<C7>トロッコ軌道跡に開けた裸地。ここから「紀伊の松島」が一望できる。

<大正期の大台ヶ原原生林開発 〜その木材運搬ルート2〜>

【山手線終着点 --(軌道)-- 岩井谷隧道 --(軌道)-- 山手線出発点(白崩貯木場)】

「秋の大台山」伊勢新聞連載記事(大正11年)漕濱生記者【その4】
 (ここを去って更に登れば大台林業会社の社宅がある。)ここからまたトロッコに乗って二里の緩やかな勾配を山上に運ばれる。この途中は前に山麓の相賀から猪ノ谷に至る二里余の山道トロッコと大いに異なり、もし一歩誤れば人はたちまち千尋の断崖下まで投げ出されて粉砕されそうな極めて危なっかしい箇所が少なくない。現にこの夏にも木材運搬中に崖下に転落して死亡した挽夫があったということである。
 時に今まで晴れていた秋空は一行が岩井谷からトロッコに乗った頃からにわかに雲霧に覆われ、上に登るにしたがって一歩一歩寒さが急に深刻に迫りはじめた。そして霧の絶え間から時々燃えるような紅葉の光がもれて、深山秋景をトロッコ車上に眺めつつ山の周囲を螺旋形に登った。上がるにしたがって大台名物の熊笹やあるいは老幹も滑らかに苔むした原生林の怪樹巨木が次から次へと流れていく、一行中の何人かが先年県下で有名な一大疑獄事件となった荘司某の大台ヶ原山林はここだと指さすのを見ておぼろげながら当時の記憶を新たにさせられた。

「運搬木材で圧死」『紀南新報』大正10年11月4日
 『本籍岐阜県益田郡朝日村、中井泰吉(19)は北牟婁郡相賀村で山稼ぎをしていたが、大正10年10月31日午前10時頃、同村岩井谷の木材運搬線路でトロッコに木材を積み運搬中に、脱線したトロッコと共に素吉は8尺(約2.5m)余りの窪地へ墜落するや、木材に強く頭を打たれ人事不省となったのを同じ仲間のものに助けられ、応急手当中午後4時過ぎになって遂に死亡した。』

<山手線終着点〜岩井谷隧道>
 「山手線終着点」と思われる地点からトロッコ軌道跡をたどっていく。ここから白崩貯木場まで、全区間トロッコ軌道である。四日市製紙が施設したレール幅は610mm(4kg/mレール)で、三重県側の森林鉄道が762mm(6kg/mレール)だったのに対して、狭く心許ない。また、軌道開削にあたっては「幅七尺」で進めたことが計画書に残っている。レール幅の問題だけではなく、多雨地帯において常に土砂の流出や崩落が繰り返されたことによる地盤の不安定さも大きいと思われるが、伊勢新聞の取材記事にも、トロッコの転落事故について触れられている。また、大正10年11月4日付の紀南新報でも、岩井谷トロッコの崩落事故が報じられている。
 実地調査からは、 「山手線終着点」と「岩井谷事務所」は特定できていない。しかし、四日市製紙関連資料に樫山付近の「電話線路予定線図」 があり、そこには「山手線軌道」と「中央線軌道(樫山の尾根に沿った軌道)」とつなぐ「岩井谷架線」、さらに「岩井谷事務所」が明確に記載されている。この資料をたよりに、それら2ヶ所の位置を推定してみた。
 
トロッコ軌道山手線には、現在、何ヶ所か大きな崩落跡があって寸断されており、その度に、私たちの調査は高巻きを強いられる。一つ目は、地形図上の標高点1174付近の東側で欠損している。その間、尾根伝いの登山道を歩いていると電話線を敷く際に使われたと思われる碍子などが散在しており、時代は特定できないものの四日市製紙時代の可能性も否定できない。標高点1272のあたりを目印に、東斜面を尾根伝いに下りていくとなだらかな裸地があり、そこから熊野灘を一望できる。また、放置されたトロッコの車輪も見つかり、テンションの上がる痕跡である。そこを起点に、等高線の1150mに沿って南北にトロッコ軌道跡がハッキリと残っている。
 その裸地から北進すると、再び崩落で寸断され行き止まってしまうが、次に確認できるトロッコ軌道跡は、尾根を飛び越えて西側の標高1200mの等高線上に移動している。この尾根の西側から東側への切り替わり、最大の謎であった。しかし、『三重県の森林鉄道−知られざる東紀州の鉄道網−』の著者である片岡督・曽野和郎両氏の調査により、1枚の写真から鍵穴が開けられた。その謎は、「岩井谷隧道」と記されたトンネルの写真の発見により解き明かされたのである。つまり、地池高から樫山まで伸びる尾根筋の岩井谷側を北上していた軌道は、トンネルで尾根を越えていたのである。それを実証するために、あとはトンネルの発見であるが、今のところ、隧道の入口と思われる場所は尾根の両側とも発見できていない。いつしかの崩落によって埋まってしまったものと思われる。

  レール幅 レールの種類
四日市製紙 610mm 4kg/mレール
三重県森林鉄道 762mm 6kg/mレール
JR在来線 1067mm 40kg/mレール
50kg/mレール
私鉄 1435mm, 1067mm
新幹線 1435mm 60kg/mレール
 
<C1>C2のトッロコ道跡あとよりさらに南に平坦な裸地があり、ここが山手線最終地点と推定。
 
<C2>明確なトロッコ道跡はここまで。   <C3>尾根道のすぐ東側にトロッコ道跡。
 
<C5>崩落箇所から北側に再び軌道跡。   <C6>トロッコ軌道を通すための切通。
 
<C7>晴天時には、熊野灘を一望できる裸地。この両側に明確な軌道跡、さらに決定的な車輪が放置されたいた。
 
<C4>尾根道には、電話線の碍子が残っている。
  <C8>このトロッコ道跡の先で崩落しているが、この辺りに岩井谷隧道の入口があったはずである。

<岩井谷隧道〜山手線出発点(白崩貯木場)>
 登山道としては、尾根筋が歩きやすいのであるが、岩井谷隧道の西側入口付近は、急斜面で危険である。それでも、なんとかトロッコ軌道跡を北上していくと、地池高の南側斜面で、三度、大規模な崩落箇所に出くわす。荒地のパイオニア植物であるアセビやシャクナゲが繁茂し、トロッコ軌道跡も大きく寸断されているため、その先に続く軌道跡を見つけるのに四苦八苦する。その先の地池高と堂倉山の鞍部付近では、トロッコ軌道跡と登山道が大接近し、北に堂倉谷が開けている。堂倉山へは直登の登山道が近道で、シャクナゲの大群生が見られ、開花期に来てみたいと思う。その鞍部の南斜面側は大きく崩落しており、ヘルメットやロープなども用いながら慎重なルート選びが課せられる。
 トロッコ道は、堂倉山への登山道を離れ南下する。堂倉山の南麓に白サコという平地があるが、そこを源とする谷が東へ落ちているのだが、その谷の上をトッロコ軌道跡が通っている。立派な石積みの橋脚跡が残っており、それが目印である。堂倉山からマブシ峰に至る尾根筋の東側を通るトロッコ道跡は、なだらかな暗部で西側に転じ、そこから北上する。このヘアピンカーブから先は、尾鷲道という登山道と並行するように走り、時には交錯するものの、白サコから先は登山道を離れ、白崩谷の源流を迂回するように伸びる。伊勢新聞の記事には、「深山秋景をトロッコ車上に眺めつつ山の周囲を螺旋形に登った。上がるにしたがって大台名物の熊笹やあるいは老幹も滑らかに苔むした原生林の怪樹巨木が次から次へと流れていく」とあるが、「螺旋形のトロッコ道」は、この辺りかも知れない。ただ、「老幹」や「怪樹巨木」は、今となってはトロッコ軌道沿いには見あたらず、往時の原生林の面影はない。白サコを過ぎた辺りから、腐食しかけの枕木が残っていたり、茶碗や瓶など生活痕が見え隠れする。白崩貯木場は近い。

 
<C9>大規模崩落地(蛇抜けの対岸で道迷う)   <C10>
 
<C11>大規模崩落地(地盤が不安定で危険)   <C12>
 

<C13>白サコから流れる沢に架かった橋脚跡(右写真では、盛土がしっかり残っている)
 
<C15>この小さな峠でヘアピンカーブ   <S1>
 
<S2>   <S3>堂倉山南麓の白サコ
 
<S4>白サコ付近(左・トロッコ軌道跡、右・登山道)   <S5>枕木にレール釘も残っていた
 
<S6>石積み橋脚の残骸   <S7>放置されたトロッコのレール

【参考文献】
★『三重県の森林鉄道−知られざる東紀州の鉄道網−』片岡督・曽野和郎著
★『伊勢新聞』大正11年(1922年)10月21日〜29日連載記事「秋の大台山」漕濱生記者
★『紀南新報』大正10年11月4日「運搬木材で圧死」
★『大臺か原登山の記』吉野郡役所・大正7(19191)年
★『太陽」大正5年8月号に掲載された白井光太郎講演録
★「北山東ノ川水利利用計画変更図面」大台水力株式会社(奈良県立図書情報館蔵)
★「大台ケ原山木材搬出道路新設許可一件」1918年/大正7(奈良県立図書情報館蔵)