大正期の大台ヶ原原生林開発 〜千萬の黄金眞玉をいただきつヽ知らす顔すな三縣の人〜
第一次世界大戦(1914年〜1918年)が始まると、ヨーロッパからのパルプ輸入が滞り、樺太材など国産で賄わざるを得なくなった。そうした中、ここ大台ヶ原の木材資源に目を付けたのが四日市製紙株式会社である。徳川頼倫(紀州徳川家第15代当主)一行が入山した1917年(大正6年)には、既に多くの巨木が伐採され、荒涼とした大台ヶ原を目にして嘆いている。(『大台ヶ原登山の記』より) こうした木材は、樫山を経て三重県の相賀まで運ばれ、引本港から積み出しされたが、その運搬方法も、当初は木馬とトロッコを組み合わせていたようだが、1919年(大正8)には、インクラインや索道なども用いて全線機械化が図られる。1922年(大正11)には、三重県山脇知事一行の視察が実施されるが、その時、『伊勢新聞』の漕濱生記者も同行し、1922年(大正11)10月21日〜29日に連載した「秋の大台山」という記事から、その詳細を知ることができる。知事一行は、汗だくになって登るというより、ルートの大半をトロッコ等で運んでもらうなど接待登山に近いものであった。 その頃になると、第一次世界大戦も終わっており、大台ヶ原の開発はパルプ材の獲得というより、伐採・製材・販売という事業に変化し、1921年(大正10)、大台山事業は富士製紙(1920年に四日市製紙と合併)より分離独立して大台林業株式会社が設立され、知事一行が視察した1922年末には、大台山林事業の中止が決定されている。 この大正期の大台山林開発を調べていく中で、山頂から相賀までの運搬ルートを明らかにしようと調査を始めた。1922年の知事一行視察時は、木材運搬施設もほぼ完成形であったと考えられ、『伊勢新聞』漕濱生記者の記事に導かれながら、相賀側から山頂をめざすことにする。
「秋の大台山」伊勢新聞連載記事(大正11年)漕濱生記者【その1】 相賀から大台林業株式会社の好意で三人もしくは四人一組になって会社の木材運搬用のトロッコに乗って山へ山へと進んでいく、丁度犬が先頭で後ろから人夫が二人がかりで押していく、その様子はちょっと樺太か台湾あたりでの植民地探検のような気がする。トロッコは山の間を銚子川に沿って遡って行く、1時間くらいで木津に到達する。ここで一行は車を降りて吊り橋を対岸に渡って、銚子川の支流である又口川沿いの道をたどって名勝魚飛渓谷を見る。(中略)この探勝に1時間を要し、再び往路に戻ってトロッコに乗って山間の杉林や桧林の下をズンズン1時間も行くと猪ノ谷である。
大正6年(1917年)、四日市製紙専用軌道河岸線(相賀線)は、相賀駅から銚子川に沿って木津を経由し、猪ノ谷(現銚子川第二発電所付近)まで通じていた。大正11年の三重県知事一行の視察時には、大台林業株式会社に引き継がれており、この区間を、3〜4人が一組になってトロッコに乗り、犬が先頭で引き、後から人夫2人が押したと記者が記している。当時はまだ、機関車が導入されず犬力・人力だったようだ。 相賀線は、後に、相賀町に払い下げられ町営軌道となるが、猪ノ谷から上流は、戦後(昭和26年)、尾鷲営林署が新たに二ノ俣線軌道を建設する。こうした軌道跡も、現在は車道となって拡幅されているが、いつの時のものか分からないものの、木津を過ぎ、林道が銚子川の右岸に渡ると、かつての軌道跡や線路を二次利用した側溝蓋などその残骸を見つけることができる。
「秋の大台山」伊勢新聞連載記事(大正11年)漕濱生記者【その2】 ここでトロッコを捨て、これから徒歩で相賀方面より登山する唯一の難道樫山に差し掛かるのである。猪ノ谷事務所にて休憩のあと軽装して荷物を人夫に託して一行はポツリポツリと登山する。ちょうど登坂路は電光形でかなりの急勾配である。夏季の登山はなお困難である。この辺は山岳地帯の特色で鉄索が山の峰から峰へと張り渡されて材木を下へ下へと運搬している。その響きと形状はあたかも飛行機の空中飛行を見るようだ。そして山林生活者の食料品や必需品が下から頂上へ運ばれると聞き、このあたりの挽夫は平気で索道により上下するそうだが、普通の人にはミルだけでも危険に感じられるという。また実際これに乗って不慮の災害にあう挽夫も稀にあるという。
大正11年当時、トロッコ軌道は猪ノ谷架線場(現銚子川第二発電所手前)までで、大台ヶ原山頂付近から樫山まで運ばれてきた木材は、樫山架線場から索道で猪ノ谷架線場まで運ばれた(大正7年7月完成)。地図に示した索道経路は、鉄塔跡などの確認ができておらず推定である。山林労働者たちは、索道に乗って平気で上下するものもいたようだが、記事によると、先の知事一行は、電光型でかなりの急勾配の登坂路を2時間半かけて登ったという。 その電光型の登坂路というのは、銚子川第二発電所あたりから樫山に通じていた木馬道のことかもしれないが、正確な経路は不明である。それとは別に、現在、銚子川から樫山に登る登山道として、地図のとおり2コースあるが、東側は蛇抜けの跡が危険でお薦めできない。
「秋の大台山」伊勢新聞連載記事(大正11年)漕濱生記者【その3】 尾花、山萩や「あけび」の実のついている蔓を掻き分けつつ、山道を喘ぎ喘ぎ登坂するのはかなり苦しい。額から背部までも一面汗まみれだ。この間、山腹にしゃがんで弁当で空腹をいやし、再び勇気を奮って頂上へ頂上へと足を運び、登り一方の山道に二時間半を費やしてようやく午後1時前に岩井谷についた。ここは第一号索道工場であってケーブルにより山上から送ってきた材木をドシドシ山麓へ下ろしている。 時折冷涼の風が爽快で用意されたビールやサイダーで喉を潤すと、先ほどトロッコを降りた猪ノ谷が山林の間から遙かに足元に見えている。また登山中に仰ぎ見た四方の山々の高さも今は自分の立っている場所と同じ位置になって、紀北の沿岸を洗う蒼茫たる太平洋の展望や紅葉した木々が杉桧の林や雑草の緑の中に点在し、限りなき雄大な山上の晩秋美を飾っている。ここを去って更に登れば大台林業会社の社宅がある。
三角点958mの樫山山頂付近は、尾根に沿ってなだらかな傾斜が東西に伸びており、その東端に「トロッコ軌道の終着点(山手線終着点ではない)」及び「猪ノ谷と索道で結んでいる架線場(第一号索道工場)」があったと推定する。その付近を調査すると、自然石が人為的に直線に敷かれている地点があり、そこをトロッコ軌道の終着点と推定してはみるものの、その延長線上に、架線場を想像させる痕跡を見つけることはできなかった。 大正11年の三重県知事一行は、額から背部まで汗まみれとなって雷光形登坂路を登ってくると、ここではビールやサイダーが用意されていたようだ。新聞記事によれば、さらに登ると大台林業会社の社宅があるという。 トロッコ終着点推定地から西ヘ遡っていくと、すぐに木馬道とトロッコ軌道跡の分岐があり、共に尾根の岩井谷側斜面を等高線に沿って伸びている。トロッコや索道が未整備の間は、木材の運搬に所々木馬を利用していたようだが、大台林業株式会社の最終形として、木馬に頼らない運搬方法が整備された。さらに、トロッコ軌道跡には、放置されたレールや枕木、切り通しなどが残っており、軌道跡であったとの確信を得るが、やがて大きな崩落地に足は止まる。この軌道は、山手線に接続して白崩まで続いていたものではなく、この崩落地から少し先で、もう一度索道を利用して山手線終着駅に連結していたと推定されている。ただ、その索道跡は発見できていない。 四日市製紙に残されていた資料「電話線路予定線図(実際図)」(『三重県の森林鉄道−知られざる東紀州の鉄道網−』参照)から、「岩井谷事務所」というものが、山頂付近のトロッコ軌道と尾根筋の間に設置されていたようだ。人が常駐するためか、水を得るため谷の近くに立地している。この岩井谷事務所というのは、『伊勢新聞』に記述されている「大台林業会社の社宅」のことだろうか。ただ、こうした建物も仮設に近いものだったためか、100年の間にその痕跡は風化してしまったようだ。 トロッコ跡の崩落地から、樫山山頂付近に戻り、尾根伝いに登山道を北進することにする。やがて、大きな平坦地に「二ノ俣国有林」と書かれた古い看板が放置され、国有林の境界標が散見できた。やがて、トロッコ軌道跡が東側から尾根筋に再び合流している箇所を発見。このあたりを、トロッコ軌道「山手線終着駅」と推察する。したがって、ここから先ほどのトロッコ軌道跡と結ぶ索道駅跡があってもいいのだが、それらしい痕跡は見つけられなかった。
【参考文献】 ★『三重県の森林鉄道−知られざる東紀州の鉄道網−』片岡督・曽野和郎著 ★『伊勢新聞』大正11年(1922年)10月21日〜29日連載記事「秋の大台山」漕濱生記者 ★『大臺か原登山の記』吉野郡役所・大正7(19191)年 ★『太陽」大正5年8月号に掲載された白井光太郎講演録 ★「北山東ノ川水利利用計画変更図面」大台水力株式会社(奈良県立図書情報館蔵) ★「大台ケ原山木材搬出道路新設許可一件」1918年/大正7(奈良県立図書情報館蔵)