【発起人古川嵩】
大台ヶ原開山の父であり、神習教福寿大台教会教長の古川嵩(かさむ)が牛石ヶ原の神武天皇像建設を推進、1928年(昭和3)、神武天皇銅像の除幕式が行われた。
2mを越す神武像は、本体が4,500kg、金鵄と弓が68kg、太刀が83kgで、総重量4.6t余りとなる。大阪市生野区の大谷鋳造所で製造され、6分割して、尾鷲→木津→水無峠→木組峠→堂倉山→牛石ヶ原のルートを使い、人力で運ばれたという。杣道は木馬、急登や岩場は人の手を使い、運搬作業だけで80日を要した。到着後は、鋳物師が鞴(ふいご)を使って本体を溶接し、丸太で組んだ三又に滑車と万力を取り付け、吊り上げて設置した。
(以上、『大台ヶ原開山記−古川嵩伝記−』鈴木林・著より)
上記の文に記述されている運搬ルートで、「尾鷲→木津→水無峠→木組峠」には少々誤りがあり、尾鷲まで船で運ばれた神武像は、6分割され、尾鷲停車場から「北山索道」を使って古和谷駅まで運ばれた。索道では、その重みでワイヤーがたわみ、樹木をなぎ倒しながら運ばれたという。古和谷駅は、台高山脈の尾根筋上にあり、そこから人力で木組峠をめざし、堂倉山を経由して牛石ヶ原に至ったとされる。
では、なぜここ大台ヶ原に神武天皇像なのか。先の著書では、田垣内政右衛門が古川嵩に語った次の牛石ヶ原伝説に、ヒントを得たという。
「神武天皇様が東征の折にじゃ、熊野の二鬼島に上陸なされ、大台ヶ原を越えられて吉野へ出られたそうじゃ。ところが、大台ヶ原に登ってこられて大変にうとうとなされて牛石ヶ原で石に腰掛けられて休息された。その石を腰掛け石と呼ばれることになったそうじゃ。」
古川嵩は岐阜県出身、父の下で御岳修行を行い、紀伊山地に入ってからも池峰明神で90日間の参籠をするなど、修験道による精神鍛錬を行ってきた。大峰山に登れば修験道のメッカであるが、古川氏はここ大台ヶ原で修験道の修行法取り入れながら、大自然の教示を体得し自然崇拝に徹することを理想とした。やがて、天照大御神をはじめとして神道古典にある天津神、国津神を祀り、古事記、日本書紀ほかを所依の教典とする神習教の存在を知り、彼の信じる神の道をそこに求めたという。
そして、田垣内政右衛門からうかがった牛石ヶ原伝説と神習教の教義を重ね、その象徴として、大台ヶ原牛石ヶ原の腰掛け石に、神武天皇像を建立しようと発願したようだ。
【記紀における神武天皇】
『古事記』では、難波から上陸した神武天皇(イワレビコ)は大和を目指すが、那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の抵抗に会い、南に下って熊野からの再起は、八咫烏に導かれ大和に入る。やがて、荒ぶる神を説得し、抵抗するものを撃退して、畝火の白祷原宮(カシハラノミヤ)で天下を治めた。
一方、『日本書紀』では、やはり、八咫烏を郷導者として大和に入り、畝傍山の東南の橿原の地から国を治める。再び、宿敵長髄彦(ナガスネヒコ)を攻撃するが苦戦、その時、急に空が暗くなり氷雨が降った。さらに、金色の不思議な鳶(トビ)が現れて、天皇の弓の先端に止まると、その鳶はまるで稲光のように光り輝いたので、長髄彦軍は慌てふためき戦意を失ってしまった。ついに長髄彦を従えたのである。
八咫烏に導かれ大和に至るところまでは記紀に共通している話だが、『古事記』に金色の鳶は登場しない。また、八咫烏が三本足であるという記述は記紀両方になく、中国・朝鮮の伝承に登場する「三足烏(さんそくう)」に重ねて描かれるようになった、という説がある。 |