日出ヶ岳から堂倉山、地池高、加茂助谷ノ頭のピークや尾根筋を歩いていると、「宮」の字の彫られた標石にしばしば出会う。これらの標石は、赤いスプレーで吹き付けられていることも多い。この時、三重の山仲間から「宮標石」のことを教えていただいた。「宮標石」は、大杉谷が「御料林」であったことの証で、明治時代、境界抗として設置された。「宮」の字は、ウ冠が輪を描く中に「呂」の刻印のあるデザインでおもしろい。
御料局が設置した標石は、明治27年(1894年)に制定された「御料地測量規定」や、明治29年(1896年)に制定された「府県委託御料地境界査定心得」に基づくものが始まりであるが、さらに、明治32年(1899年)に「境界踏査規程」が制定され、この時、「宮標石」の特徴である「宮」の字を刻むことが定められている。したがって、大杉谷周辺の「宮標石」は、明治32年以降の設置ということであろうか。その規程には、「凡ソ五寸乃至六寸(15.1cm/18.2cm)角長貳尺五寸(75.8cm)許ノ堅牢ナル石材ヲ用ヒ上部凡ソ五分ノ一ヲ四寸乃至五寸(12.1cm/15.1cm)角ニ削正シ上部ノ四端ヲ隅切ト上面ヘ十字形前面ヘ界何(番號ノ数字ノミヲ記ス)背面へ宮ノ文字ヲ刻シテ墨ヲ塗リ其ノ五分ノ四以上ヲ地下ニ埋ム」(「境界踏査規程」より抜粋)とあり、重さは1つ約51kgにもなったようである。そんな石材を、標高1200m〜1600mの尾根筋まで幾つも幾つも人力で運び上げ、5分の4以上を地中に埋めよというのだから、大変な重労働であったと推察する。
『大杉谷国有林からの手紙』2021年1月(発行:三重森林管理署尾鷲森林事務所地域統括森林官)には、「宮標石」のことが詳細に説明されているが、職員による境界巡視という任務についての記述がおもしろかったので、以下に紹介。「境界標を発見した時は、ブラシで表面のコケや土を落としてから赤スプレーをかけ、数字が読みにくくなっているものは読みやすいように補修するなど、後任の人が見つけやすい様に、しっかりと明示を行う。」多くの標石の頭が、スプレー缶で真新しい赤色が吹き付けられているのは、そういう理由だったのだ。
日出ヶ岳山頂には、三角点や松浦武四郎の石標に加えて、この「宮標石」も残っているので探されたい。これら3つの標石の意味を知れば、登頂の際の感激が倍増するかもしれない。そして、台高山系の尾根筋を歩いたときには、澪つくしの如く、パイロットの役割も果たしてくれる「宮標石」を、これからは愛でていきたいものである。 |