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大台ケ原の歴史的産業遺構2 〜大木に残る碍子〜

 

いずれも西大台周遊道にて

【大台ヶ原観測所より長距離有線電話開通】
 1920(大正9)年、農務省山林局東京林業試験場奈良県八木測候所松山森林測候所所属大台ヶ原観測所が大台教会に設置され、八木測候所より職員2名が派遣されることとなった。大台教会の古川嵩氏は、すでに1898(明治31)年頃より、私設観測所として気象観測を行っていたようだ。
 一方、大台ヶ原に降った豪雨は、しばしば下流の小橡川や吉野川流域に水害をもたらしていた。戦前までは、切り出した木材を筏に組んで流していたので、予期しない出水は大量の原木を流出させてしまい、林業組合にとってもその被害は深刻であった。古川氏は、大台教会付近の気象状況をいち早く伝えることができれば被害を最小限に留めることができると考え、長距離有線電話開設(大台教会〜河合村林業組合間)のための支援を各方面に働きかけた。電話線はアースを利用した単線で、感度はよくなったようだが、1925(大正14)年に開通する。以後、1938(昭和13)年に旧気象観測所が廃止されるまで、この私設通信設備はその役目を果たした。

【碍子(がいし)】
 架設された電話線のルートは、河合から木和田、逆峠を経て反時計回りのナゴヤ谷に沿った道沿いである。基本的には道沿いのブナなどの大木に直接碍子(がいし)を打ち付け架線を施していった。架設から90年以上たった今も、L字型の鉄製スクリュー杭の埋め込まれた大きな碍子が、大木の腹に突き刺さったまま残っていたり、登山道際に放置されているのを見かけることができる。
 西大台の周遊道をはずれ逆峠の方へ向かうと、めっきり人気もなくなり山深い登山道でふとこうした人跡に出くわす。そんな時、先人たちの大台開拓の一端を思い浮かべてみると、寂しい登山道も何かしら語りかけてくれることだろう。