こうした調査から、吉野川北岸(現奈良県五條市)の植生をこうイメージしてみた。
地質年代の第三期鮮新世は絶対年代533万年〜258万年前と区分されているが、その間、約400万年前になるとアフリカ大陸でアウストラロピテクスが産声を上げる。現在の氷河期は4000万年前から始まるが、第三紀は比較的温暖・平穏で、この頃、メタセコイア植物群(メタセコイア、イチョウ、フウ、イヌスギ、オオバラモミなど)の繁栄期であった。
第四紀更新世(258万年前〜)に入ると低温化が進み、160万年前頃には大阪層において冷温帯植物のチョウセンゴヨウが見られるようになる。菖蒲谷層は、絶対年代約200〜100万年前に形成された河成層で、採取される植物化石から、形成当初はまだ、吉野川(紀の川)北岸はメタセコイアを優占種とする森林で覆われていたと考えられる。更新世中期(78万年前〜)に入ると寒暖の交代が激しさを増し、その前後から菖蒲谷層においても、メタセコイアはすでに消滅、代わってサワラやクマノミズキ、シラカバ、さらには亜寒帯植物のシラビソなどから成る森林に移ったと考えられる。ちなみに、中国大陸では、更新世中期に入って北京原人が現れる。
日本列島に人類の足跡が見られるのは、約3万2000年前の山下人(沖縄県那覇市)、約1万8000年前の港川人(沖縄県島尻郡八重瀬町港川)、約1万4000年前の浜北人浜北人(静岡県浜松市)などが知られており、いわゆる旧石器時代である。約2万年前の日本列島は、最も寒冷期にあたり、現在よりも8℃ほど気温が低く、大陸とは陸続きであった。東アジアにナウマンゾウが生息していたのもこの頃で、ヤベオオツノジカなどと共に日本列島にも渡り、前述のホモ・サピエンスはそうした大型哺乳類を求めて日本に現れたと考えられる。
1万3000年前頃には最終氷期が終わり、温暖化が始まる(完新世)。日本列島は、いわゆる縄文時代草創期である。九州南端などにかろうじてとどまっていた照葉樹林が、次第に北上し西日本を覆うようになる。約6000年前になると、今より気温は2℃高く、海は今よりさらに内陸部に進出していた。冷温帯落葉広葉樹林や亜寒帯針葉樹林は、東日本や高山に追いやられ、紀伊半島でも大峰山系や大台ケ原にかろうじて残った。そして、約3000年前になると、ほぼ現在の植生と同じになり、西日本は照葉樹林帯、東日本はナラ林帯(冷温帯落葉広葉樹林帯)となる。
2012年
GWの最中、菖蒲谷にある子安地蔵寺へ花見に出かけた。ここは関西花の寺二十四番「ふじの寺」として有名である。私としては、「菖蒲谷」の名称やその地形の方が気になって仕方がない。帰りがけに、メタセコイアが植栽されているという杉村公園に寄ることにした。南海
高野線御幸辻駅のすぐ近くにあるが、今は訪れる人もまばらで、かつての賑わいが忍ばれる。ところが、狭い進入路をぬけ駐車場にたどり着くと、その眼前の風景に私は
思いがけず興奮した。巨木に育った数十本のメタセコイアが鬱蒼とした林を形成している。ちょうど新緑の季節と相まって、葉の緑が陽光に透かされ美しい。(※上画像)
もしや、この菖蒲谷層の鮮新世の植生を知っての植栽だとしたら、なんと粋な企てだろう。かつて三木博士が標本として発表したメタセコイアの球果は橋本市出土のものという縁、そして、ここ杉村公園も菖蒲谷層の一画
として、約100万年前にはメタセコイアの森だったという歴史から、その森を再現させてみたというわけだ。早速、この公園を管理している橋本市スポーツ振興公社に問い合わせてみると、当時の橋本市長のご兄弟の方が手に入れたメタセコイアの苗を、「生きた化石」ということで標本的にいくつかの学校や公園に植栽されたということだった。
どうやら、私は少しイメージを膨らませすぎたみたいだ。しかし、経緯はどうであれ、ここ杉村公園に鮮新世時代の菖蒲谷層の風景が蘇った。GWの最中のささやかな発見です。 |