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                         くりんとの登山ガイド

           
   
 吉野川(奈良県) リバー・ツーリング 〜ガイド編〜

 これまで熊野川(和歌山)、空知川(北海道)、姫川(長野県)、さらにはアラスカでもラフティングを体験したが、わがふるさとの清流吉野川 にも、たくさんのパドラーが訪れている。 しかも、先の川と比べても何ら遜色ない。一方で、私の周辺は遠くのものをありがたく思う。市内の中学生は「修学旅行の体験学習で、富士川のラフティングが一番面白かった」と言う。 機会あるごとに、吉野川ラフティングの魅力を熱っぽく説くのだが、こればっかりは川に行ってもらわないとなかなか伝わらない。そこで、晩秋の 休日、老若男女を募って2艇をくりだした。
 この日、水量は最低だったが、天気には恵まれた。盛夏なら、川下りに加えて遊泳や飛び込みも楽しめるのだが 、今回は河岸の自然や歴史についてガイド付きという趣向で出発した。もちろんガイド役は森林インストラクターの私“くりんと”。

【植物】
 吉野川の清流は「県立吉野川津風呂自然公園」に指定されており、貴重な水辺の景観を保存するため条例上の規制がある。したがって、原生林とはいかないが、人の手が届きにくい岩礁にはこの地域固有の植生も見られる。アラカシやヤブツバキ、シロダモやヒサカキなどの照葉樹がそうである 。一方、河岸は里山の林縁でもあり、落葉広葉樹のクヌギやコナラなどが見られるが、ナラガシワの多いのが吉野川の特徴である。 河岸に育つオニグルミが水散布植物であるように、ナラガシワのどんぐりも同様の戦略をもちあわせているのだろうか。 川の地名に「ケヤキ瀬」や「カヤの木」が伝わるが、その場所には今なおその名の樹種が見られ 、少しうれしくなってくる。
 春にはカワジチャやユキヤナギ、ヒメウツギ、夏にはカワサツキやシラン、ササユリ、コオニユリなどの花が、パドラーの目を楽しませてくれる。 気難しいランの仲間にありながら、シランは育てやすく庭先でよく見かける。しかし、岩礁にしがみつきながら他の雑草に混じってしたたかに生きる自生のシランを見たとき、この花の本当の美しさに出会ったような気が する。

【動物】
 「桜鮎」で有名な吉野川の鮎も、今は漁協が放流する稚鮎にとって代わっており、背に黄色い花びらの紋をもつというかつての天然ものはどこへいったのだろう。カヌーを浮かべていると、大きな魚体が川底をすり抜けていくこともしばしばだが、その場合はたいがいニゴイ。マゴイもいるが、彼は大きな渕、ニゴイは流れのあるところと 二者は棲み分けている。ニゴイのことをこの地方では「ヒバチゴイ」と呼んでいるが、アユを捕食する一方、当人は骨ばかりで美味しくないので、やや憎しみを込めて「ヒバチゴイ」と呼べば地元のニュアンスに近くなる。(笑)

 <五條の方言 /魚編>
  アユ → アイ  オイカワ → ジャコハイジャコ  オイカワ♂ → アカジ  ニゴイ → ヒバチゴイ
  ギギ → ギンギ  アマゴ → アメノウオ  ヨシノボリ類 → ゴリキ  ウナギ → ウナギオナギ

 野鳥では、シロセキレイにキセキレイをよく見かけるが、カワセミは矢のような速さで水面スレスレを滑空していくため、初めての方にはなかなか視認できない。最近では 、カワウやアオサギの姿も多く見かけるようになった。 カワウの増加による水産被害は、琵琶湖などで顕著である。営巣地では巣作りによる枝折りや大量の糞によって樹木が枯死し、また、一日あたり捕食量300g〜500gという大食漢 が、特に稚アユを好むらしい。ここ吉野川でも、アユのみならずジャコ(オイカワ)さえ釣れなくなったのは、やはりカワウのせいだろうか。
 河岸の砂地には、ハの字の足跡をよく見かけるがニホンジカではなくイノシシだろう。あとイタチも多い。
 今や絶滅危惧種となったカワウソ は吉野川にも生息していたのかどうか、もはや確かな証拠はない。しかし、河太郎(ガタロウ)伝説は数多く残っている。
河童のモデルはカワウソだと言われ、吉野では、河童のことをガロ、ガロボシ、ガラボシ、ゴウラボシ、ガタロなどと様々に呼ばれている。五條に伝わる昔話に“回り淵の主”というのがある。「回り淵には、昔から主がいるといわれた。ある時、河原で櫛を探している人がいた。すると、主は櫛に化け、その人を引っ張りこんだという。」この話では“主”という表現だが、河童やガタロを連想させる話で もあり、このような大きな淵にはかつてカワウソがいたのかもしれない。

 
   
カワサツキ(6月)   シラン(6月)   ナラガシワ(10月)
 
ケヤキ瀬(12月)   ヒメウツギ(4月)    
       

【歴史】
<縄文・弥生時代>

 縄文時代にはすでに吉野川沿いに人々の暮らしが見られ、五條市でも稲口遺跡や上島野遺跡などが確認されている。 この2つの遺跡では、狩猟のための石鏃と共に両端に切り目のある切目石錘が出土している。このことから、吉野川ではすでに網漁法が行われていたと推察できる。こうした石器は、上流の宮滝遺跡(吉野町)や宮の平遺跡(川上村)でも見つかっており、人々の交流が うかがえる。今も吉野川の河岸にはイノシシの足跡が容易に発見できるし、河岸にはクリやどんぐりの実る木も多い。こうした河岸段丘上の
台地は、狩猟・漁労 民にとって格好の居住地であったと思われる。
 
阿太小学校敷地内の 原遺跡や阪合部小学校敷地内の中遺跡では、主に弥生時代の人々の暮らしが見られる。竪穴住居跡や弥生土器など に加え、中遺跡では石包丁や土器棺墓も出土しており、その暮らしの水準の高さがうかがえる。このように先史時代の人々の生活は吉野川から遠く離れることなく 、川沿いの河岸段丘に住みながら、上・下流へと行き来が見られたと考えられる。

<古墳・飛鳥時代>
○塚山古墳
 北宇智の古墳には、鉄器製造集団に深く関わった者を埋葬したと思われるものがいくつか見られるが、最も北に位置する塚山古墳(出屋敷町)もその1つである。石棺内からは人骨が完全な形で発見され、鉄製の甲冑や鉄斧、鉄剣などが副葬品として出土している。さらに、鉄製釣針と土錘の漁労具 が副葬品に含まれていることが興味深く、甲冑一式をもつ武人的な性格に加え、漁業に深く関わった人物であったのだろうか。

○国栖奏
 宮滝よりさらに上流の浄見原神社(吉野町南国栖)において、毎年旧正月14日に国栖奏という奉納舞が催される。その昔、応神天皇が吉野離宮に行幸したとき、国栖人が醴酒を献上して歌舞を奏したことが始まりとされているが、大海人皇子が壬申の乱で挙兵した時も、国栖人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、一夜酒や腹赤の魚を供して歌舞を奏したとされる。そうした経緯からか、今でも神前には山菓(くり)・醴酒(一夜酒)・腹赤の魚(ウグイ)・土毛(根芹)・毛獼(赤蛙)など珍味が供えられ る。『記紀』に伝わる国栖人は「国つ神」系の縄文人であったと想像されるが、当時の食生活やそのもてなしぶりが忍ば

 


石錘(上島野遺跡)

 


土錘・釣針(塚山古墳)

腹赤の魚(ウグイ)

れて興味深い。

<奈良時代>
〇古事記
 『記紀』の中の神武天皇は、八咫烏に導かれて橿原宮に入ったとされているが、その途上での吉野川周辺の記述が興味深い。以下に、『古事記』より抜粋し てみたが、 ここに出てくる「国つ神」は、稲作をもちこんだ大陸系弥生人の「天つ神」に対して、狩猟・採集を中心とする縄文系の人たちと言える。そして、天つ神の御子神武天皇が出吉野川流域で会った「贄持之子(
阿陀の鵜養の祖)」「井氷鹿(吉野首等の祖)」「石押分之子(国巣の祖)」さらに「宇陀のエウカシ・オトウカシ」らは、国つ神系で縄文的生活を送る土着民であったと考えられる。こうした文献と縄文・弥生遺跡とをリンクさせれば、例えば阿太地域には漁労を生業とする 民の集団がいたことになる。 さらに、鵜飼という特徴的な漁業を得意としていたようだ。
 
吉野川が八田を流れるあたりに、「皇座位(こうざい)」という俗称地名が残っている。 ここでは、川の中に大小の岩が露出しているが(「筆捨て岩」のことか)、神武天皇が大和へお出になった時、贄持(にえもつ)の子がうやうやしく鮎を奉った所と伝わる 。先の『古事記』の一文とリンクする。

 かれ(神武天皇)、その教へ覚しの随に、その八咫烏の後より幸行せば、吉野河の河尻に至りましし時、筌を作りて魚をとる人あり。ここに天つ神の御子、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は贄持之子と謂ふ」と答へ白しき。こは阿陀の鵜養の祖なり。
 そこより
幸行せば、尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。即ちその山に入りたまへば、また尾生ひたる人に遇ひたまひき。この人巌を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ。今、天つ神の御 子幸行ますと聞きし故、参向へつるのみ」と答へ白しき。こは吉野の国巣の祖なり。そこより踏み穿ち越えて、宇陀に幸しき。かれ、宇陀の穿と日ふ。
                                              『古事記』(次田真幸・全訳注/講談社学術文庫)

〇万葉集
 
一方、『万葉集』でも吉野川で漁労する阿太人を詠んだ歌が残り、南阿田町に歌碑 が見られる。
     安太人の 梁うち渡す 瀬を速み 心は思へど 直に逢はぬかも (巻11-2699)
 同じく、阿太を詠んだ歌である。

     真葛原 靡く秋風吹くごとに 阿太の大野の 萩の花散る (巻10-2096)
 吉野川の古刹栄山寺境内には、次の歌碑が見られる。

     苦しくも 暮れぬる日かも 吉野川 清き川原を 見れど飽かなくに (巻9-1721)

<江戸時代>
〇五條十八景
 
江戸時代の吉野川原風景を伝えるものとして、詩画帖『五條十八景 』が残る。漢詩は宝永年間に紀州の文人、祇園南海が詠んだもので、約100年後の文化年間に、初代五條代官を勤めた河尻甚五郎が三井丹丘に命じてこの詩をもとに 絵を描かせたというものである。 『芳野川筏』では筏流しが吉野川の風物詩として、また 『野原柴橋』では、江戸時代の大川橋が描かれ、『牧瀬漁網』では鮎漁を行う夫婦の姿がおもしろい。

<明治・大正>
川船と渡船
 明治34年に五條・和歌山間の鉄道が通じるが、それでも大正初期までは物資の輸送に船が用いられ、吉野川(紀の川)には風にはらんだ白帆の姿が見られたという。新町には船着き場が2ヶ所あり、『大和国町村誌集』 (明治15年)には宇智郡内に56艘の船があって水運の中心になっていたと記載されている。橋本から下流はさらに川が大きくなるため、江戸時代、荷物船は橋本で積替えて和歌山へ下るのが一般的であったらしい。また、この川船は、貨物のほか旅人も利用し、五條から学文路まで船で下って高野参りをしたという。
 大正時代までは、上流より八田・原・島野・牧・犬飼・相谷の6ヶ所に渡船場があり、その後次第に橋が建設されていく。最後まで残ったのは牧の渡船で、昭和40年代まで見られた。また、相谷の渡船場を示す「この下に船渡あり」の道標が、念仏寺前と降霊寺 付近に残っている。

   
渡船場を示す道標(念仏寺)   筏流し(栄山寺浦)   五新鉄道橋梁橋脚


<昭和>
〇筏流し
 筏流しの風景は戦前まで見られた。吉野川流域の林業は、室町時代から杉の植林が始まり、吉野杉はとりわけ酒樽の材料として、建築材と共に盛んに利用され た。原木は筏に組まれ、昭和初期頃には、本流を下る筏は年間5,000筋あったといわれる 。 五條は和歌山までの筏流し流路の中間地点にあたり、明治末期には二見の川端に貯木場が設けられた。曲渕より堀割りの水路を造り、筏を貯木場に引き入れ、その周囲に製材工場を等を設けて水陸一体の木材加工集散の中心地としたのである。したがって、 新町には筏師たちが定宿としていた旅館が多くあり、山田旅館もその1つである。こうした筏流しによる流通は、戦前までよく見られたが、戦後、木材の輸送はトラックや鉄道に代わり、昭和20年 代後半には筏流しが見られなくなった。
 私の父が子供の頃は、上流まで泳いで行って筏に乗せてもらうのが楽しみだったという。筏師は前と後ろの二人で操っていた。筏を組む際には藤つるが使われていたが、傷んで切れてしまうこともよくあり、交換のための新しい藤つるを買い求められることもあったようだ。


五新鉄道
 明治末頃から、吉野の森林資源の搬出路として、また軍事上の見地からも五條と新宮を結ぶ鉄道の建設熱が高まり、昭和12年(1937)五新鉄道の着工が始まった。太平洋戦争が始まると、鋼材不足等の理由から一時中断されたが、昭和29年(1954)に工事は再開され、昭和34年(1959)に五條−城戸間路盤工事が完成する。さらに、昭和46年(1971)には天辻トンネルも完成するが、国鉄再建問題がクローズアップされ、昭和57年(1982)、ついに工事が全面ストップとなった。
 現在も、新町の壽命川沿いに約300mほど五新鉄道高架橋が残っており、そこから吉野川を挟んで対岸の野原側に橋梁を渡す予定であった。コンクリート製の橋脚までは完成したが、その後、川の中に立つ煙突のようにずいぶん長い間放置されていた。

〇六倉用水(取水口)
 六倉地区は吉野川の蛇行に沿って突き出た半島のような地形で、水源に乏しく戦前は養蚕収入に重きを置いていた。しかし大戦中、全国的に食料増産が叫ばれたので、六倉の畑地も水田化すべく、数十メートル崖下の吉野川から導水すべく策が練られた。採用されたのは、自然河水の低落差を利用した松下式プロペラ水車と、その原動力で起動するタービンポンプ2台で吉野川の水を揚水しようというものである。昭和17(1942)12月着工、3年近くの歳月をかけ昭和207月に完成した。これを機に耕地整理も行われ、豊かな水田地帯となった。
 区保存の工事記録の概要は次の通りである。
 「吉野川の水を六尺の高さ、巾五尺のトンネル百二十間のトンネルを掘り、導水路として一秒間に三十立方尺の水を導入、落差十五尺の内十三尺を利用するプロペラ水車を据えつけ此出力三十馬力、其原動力を以て一秒間一立方尺、最大一・五立方尺の水を八
(いんち)の送水管にて九十尺揚水し、三百九十余間の幹線水路を通じ導水す。」

〇伊勢湾台風
 昭和34年(1959)9月26日18時、潮岬付近から紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は、奈良県内だけでも、死者88名、行方不明者25名、負傷者104名にのぼる人的被害と家屋全壊795棟、半壊1598棟、流出558棟などの住 宅被害を出した。川上村入之波では、26日夜7時に時間雨量が118mmという猛烈な雨となり、この日一日だけで650mmの記録的な雨量となった。この豪雨により紀の川の洪水流量は計画を上回る7,000トン/秒を記録し、奈良県・和歌山県で甚大な浸水被害 となった。
 明治以降の記録に残る吉野川の大水害として、この伊勢湾台風がbPだろう。現在の河川行政も、この伊勢湾台風時の流量が基準となって治水工事が行われている。大昭橋をくぐり六倉の高岩を通過したあたりの左岸に、伊勢湾台風の洪水によって崩壊した崖崩れの跡が今も 見られる。

〇吉野川分水
 
一方、奈良盆地は降水量が少なく小河川が多いため、昔から数多くのため

池が造られ、水不足をしのいで農業を行ってきた。しかし、山を一つ隔てると、
全国有数の降水量ほこる大台ヶ原が源流の吉野川が流れている。その水を何とか奈良盆地に引けないものかと、すでに江戸時代から考えられていた。時は流れ、終戦後の国土復興には食糧増産と資源の開発が急務となり、昭和25年、奈良・和歌山両県の事業実施の協定が成立し、奈良県の悲願であった十津川・紀の川総合開発が国の事業として開始された。
 この計画は、以下の通りである。
■ 吉野川上流に、大迫ダム、津風呂ダムを建設し、治水と利水を目的として流量をコントロールし、大迫ダムでは発電を行なう。
■ 奈良県下渕の下渕頭首工にて吉野川の水を大和平野へ導水し、灌漑と上水道用水を供給する。
■ 十津川上流に猿谷ダムを建設し、発電を行ないながら紀の川水系の大和丹生川へ流す。
■ 大和丹生川に西吉野頭首工を設け、紀の川北岸を潤す「紀の川用水」を建設する。(昭和40年着工)
■ 紀の川支流の貴志川の山田ダムを設けて、貴志川筋の灌漑を行なう。

 昭和62年(1987)、地区内の用水路約340kmを含む全ての工事が完了し、現在は奈良盆地、紀伊平野の営農に大きく寄与している。

 ただ、これらの工事によって吉野川の水量は極端におち、それまでの水位より1〜2m下がったと、私の父は言う。また、流域 住民の生活スタイルの変化(洗濯機の使用や食器を洗う際の洗剤使用及びそれらの下水) による川の富栄養化が進み、吉野川の水はずいぶん汚く、臭く、大腸菌の心配される川となった。美しい水に育った名物桜鮎は昔の話となり、遊泳など人の足もいつしか遠の くことになる。(その後、吉野川浄化センターができ
吉野川流域下水道の処理が進み、汚れや臭いはずいぶん軽減された。)

<平成>
○大滝ダム
 大滝ダムは、昭和34年の伊勢湾台風によってもたらされた紀の川沿岸の甚大な被害を契機に、1962年(昭和37年)計画が発表された。しかし、1974年(昭和49年)、大迫ダムは完成したが大滝ダムの補償交渉は全く暗礁に乗り上げ、一向に事態が進展しないダム事業の代名詞と なり、『東の八ッ場、西の大滝』とも一部でささやかれたらしい。長い年月を掛けた補償が終了し、紀の川沿川地域の水害を軽減するための洪水調節、紀の川下流地域への水道用水および工業用水の供給、そして水力発電を目的とした多目的ダムとして、1996年(平成8年)よりダム本体工事が始まる。2002年(平成14年)に本体が完成 。試験湛水を行う中、川上村白屋地区で斜面に亀裂が発見される。その後も家屋に亀裂が入るなど深刻な状況となったため、白屋地区は全戸避難を余儀なくされた。 ダム建設計画の難しさを再認識させられた大滝ダムだが、今後の経緯を見守りたい。

   
六倉灌漑用取水口跡   吉野川分水下渕頭首工   大滝ダム


【参考文献】
 『宇智郡史』(大正13年)
 『五條市史』(昭和33年)
 『吉野川紀行』奈良県立橿原考古学研究所付属博物館特別展図録(2009年)

 
 
   

 
   

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