また、野原の御霊神社の下は「天神浦」と呼ばれ、その靜かな流れに遊泳や釣りを楽しむ人も多く、
栄山寺浦でも昭和40年代までは遊泳や貸ボートの風景が見られた。
【吉野川の鮎漁】
大正13年に出版された『宇智郡史』には、吉野川の鮎漁を以下のように紹介している。
「吉野川には櫻鮎と名づくる特質の鮎を産す、昼は石打法、夜は火入法にて何れも網を以て漁す、石打法は面白き漁法なれば阪神地方より之れを見に来る者多く、火入法は最も多く漁獲する法なれば盛に行はる。而して六月一日は川開きなれば好漁家は五月三十一日の晩より漁具を携へて川辺に集まり六月一日午前零時を待つ、時至れば川中に飛び込み競ふて漁す、何れも火入法に依るものなれば幾十百の漁火暗中に揺れて水に映ずる様は実に奇観なり、之れを遠方より眺むれば筑紫の不知火も欺くやと思はる、此の景夜明けまで眺め得べし、而して此の一夜のみにても数万尾を漁すと日ふ。他に友釣法、段引法、引掛法等ありて乱漁の結果年々産額を減少す、左れば之れを保護する為めに明治三十七年より六月以前の幼魚を、大正九年度よりは引掛法を禁ぜられ、大正十年よりは漁業の課税更に厳なるに至れり。」
6月1日の川開きには、午前0時を待って一斉に川に飛び込み狂乱している様が
楽しい。現在は見られなくなったが、昼の「石打法」、夜の「火入法」が珍しく、大阪の方からも観光客が来たという。「石打法」は“まきかわ”あるいは“まっか”と呼ばれて
いて、若い頃遊船に携わっていた私の父は、この漁に参加して遊船客を楽しませたという。以下は、父の話。
「船の上で酒もふるまったし、栄山寺浦に上陸しては鮎味噌、鮎雑炊を作って食べさせた。リクエストがあれば、『まっか』と言う鮎漁を見せた。あらかじめ船に積んでおいた拳大の石を投げて鮎を追い込
んでいく。船の上から投網がうたれると、石子(投石する人)たちがすぐに潜って網にかかったアユの骨を折り(“骨をあわす”という)、逃げないようにしてから船にあげた。当時は海から遡上する天然アユがほとんどで、そう数が捕れたわけではないから、網にかかっていないときは、ふんどしに入れておいたアユをあたかも獲物のように見せて喜ばせた。」
鮎漁のもう1つの賑わいは産卵期である。仲間同士でにわかに「〇〇で瀬付いている」という情報がまわってくると、父は夜中でも出かけた。私も何度かついていったが、たくさんの釣り人が産卵の始まった瀬に取り付いてお祭り状態である。この場合は、段引きか瀬引きで、産卵に集まったメス・オスのアユを入れ食い状態で釣り上げる。もはや魚籠など用いず、竹で編んだビール籠がみるみるうちに一杯となる。オスはやせ細り、メスは卵まみれになっている。さて、こうして持ち帰ったアユは、串刺しにして素焼きにしたあぶり鮎、鮎味噌などの保存食となる。私は塩焼きにしたメスの卵が大好きだった。
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