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 吉野川(奈良県) に伝わる地名 〜伝承編〜

吉野川の地名(※赤字)

 私の父は昭和6年生。その父が小学生の頃は、吉野川(奈良県)にもまだ筏流しが見られ、筏に乗せてもらってよく遊んだと懐かしがる。また、十代後半には、下市〜五條間に出ていた屋形船の仕事を手伝い、下ってきた舟を3人がかりで上流の下市まで引き上げていく仕事も、いい日当になったらしい。戦後、木材の輸送はトラックや鉄道に代わり、やがて筏流しは消える。
 しかし、父にとってその後も吉野川は生活の一部。特に大川橋から上流に点在する数々の瀬や淵の状況は知り尽くし、鮎釣りに興じた。「この前は葦ヶ瀬」「今日は高岩」「次は百軒」と、川の地名がくり返し私の耳にも飛び込んできた。私自身、鮎釣りを継承することはなかったが(実は渓流釣り派)、今やカヌーで吉野川や熊野川を下っている。そして、何度も同じコースを下っているうちに、川にも地名があることを思い出した。「そうだ、父の元気なうちにカヌーに誘い出し、川のことを教えてもらおう。」世間一般の昭和6年生なら、パドル片手に川下りに誘うことは二の足を踏むし、実際そうした話にはのってこないと思うが、二つ返事だった。
 そうして何度かの同行で聴き取った川の地名、川の歴史、そして川に親しんだ人々の暮らしは、とても新鮮だった。鮎釣り客も遠のきつつある吉野川(五條市内)において は、こうした川の伝承文化も絶滅寸前とも言える。一方、カヌーやラフティングというスタイルでは、人々が吉野川に戻りつつもある。そうしたところを拠り所に、 せめて吉野川の地名だけでも何とか継承できないものかと考える。

   
松ヶ瀬   筆捨て岩   ケヤキ瀬
   
南阿田の流し雛        
   
源平岩   山が瀬   宮の瀬

【筆捨て岩】
 佐名伝付近吉野川の流れの中に、大小の奇岩を水に浮かべたような様が面白く、岩の上から眺めるとそれらの岩が水の流れに逆らって動いているようにも見える。弘法大師がこの風景を描こうとしたが岩が動いてうまく描けないので、嘆いて筆を捨てたと伝わる。
 また、大和志
(享保19年・1734年)に は、以下のような記述もある。
 「佐名伝村付近の吉野川に佐名伝川原というところがあり、川中には大きな奇岩があって行く人の目を楽しませている。俗に『金岡が筆捨岩』と呼ばれている。」
 このように、川中の馬の背のように続く奇岩の様を絵にも描けないことから「筆捨て岩」と呼ぶ解釈と、一方、『五條市史』には以下のように、人の足跡が残る岩を「筆捨て岩」と呼ぶ別の解釈が見られる。
 
 「八田町吉野川岸にある。筆捨て岩の少し上流には、長岩といって、馬の背のような岩が百米余り続いている。この『筆捨て岩』は、上が平面になっており、人の足跡が残っている。昔、弘法大師(あるいは狩野法眼、または巨勢金岡とも)がこの景勝を描こうとしたが、岩石が水に逆らって動き、どうしてもうまく描けず、ついに筆を投げ捨てて長嘆息したという。今でも村人はこの岩を崇め、通る時は必ず礼をするという風で、子供がここに上がることも固く戒めている。」

【流し雛】
 奈良県五條市南阿田町では、この桃の開花に合わせて「流し雛」がとり行われる(毎年4月第1日曜日)。こちらの「流し雛」は、この雛が、紀州の淡島神社へと流れ着くようにすることによって、女の子の病封じを祈願するならわしと聞く。他には、和歌山県の粉河寺、加太淡島神社、そして鳥取県のもちがせの流し雛などが知られている。
 午後1時から、晴れ着で着飾った少女たちが源龍寺のお堂に入り雛供養が行われ、それが終わると、数百メートル離れた吉野川まで列を組んで歩く。手には流し雛。千代紙で着物と袴を折り、頭を大豆で作った男女の雛を竹皮で作った舟に乗せ、紙の一文銭が添えられている。吉野川河岸には2本の竹としめ縄が祀られ、年長の少女が「流し雛さま、私たち今までの罪汚れを吉野川の流れの上に、おとき下さいまして、清く、正しく、明るく健やかに育ちますようにお願い致します。どうか私達の切なる願いをおききどけ下さいませ。」と願いを読み上げる。その後、竹で組まれた河岸の壇上に並び、川面に手を合わせておもいおもいに雛を流す。

橋掛け        
   
銚子の口   ノー松   八ツ折
   
ノコギリ   芦ヶ瀬   高岩
高岩のまな板        
   
蜂食い   湧水(※井戸尻の語源)   井戸尻
   
地獄谷   栄山寺浦   音無川
       

【高岩(たかいわ)
 吉野川は、大台ヶ原を源としながら、中央構造線の南縁にある破砕帯を浸食しつつ蛇行を繰り返しているが、その浸食によって三波川変成岩などの岩盤 が顕わになり、奇岩や景勝地を形成している。六倉の南端でも大きくヘアピンカーブを描き、その膨らんだ先端には「高岩」と呼ばれる大きな一枚岩が露出している。すぐ上流には瀬があり、大きなカーブによって勢いをつけた流れはこの「高岩」にぶつかって淵をなす。その昔、遊船が往来していた頃は一番の難所と言われ、船から客を一端下ろしてこの瀬を乗りこえたという。
 また、「高岩」にぶつかって渦巻いている渕の川底には、平らな岩盤がむき出しになっていて「高岩のまな板」と呼ばれている。このまな板の上に つく良好なミズアカにアユがたくさん集まり、ここを得意に段引きする川漁師もい た。冷蔵庫を自転車に括り付けた下市の料理屋が、その川漁師の足元までアユを買い付けに来ていたという。「高岩」 の一部には雨除けになるほどの岩のひさしがあって、そこで日中の暑さをしのぐことができたらしい。
 この「高岩」の向かいの岩礁には、鉄砲の弾で撃たれたような穴がたくさん開いており「蜂食い」と呼ばれている。また、少し下流には鎌の刃が水面に突き出たような岩があり、そこは「モロカマ」。そして、このヘアピンカーブの蛇行が再び北上するあたりの左岸には、伊勢湾台風の増水によって削られ崩落した痕跡が今も残っている。それまで川の南側に、牧から島野に通ずる道が通っていたが、この時の崩落によって寸断され、50年たった今も修復されずそのままとなっている。

【地獄谷】
 栄山寺が背にする山は「小島山」と呼ばれ、今なおコジイやアラカシなどの照葉樹が生い茂り鬱蒼とした森となっている。栄山寺より東方の六倉にかけては急峻な山の斜面が吉野川に迫り、その昔は、小島山中を深く迂回するように道がつけられていた。ところが、昼尚暗い山中において山賊がしばしば通行人を襲い、前後を阻まれればあとは何十メートルものの断崖絶壁しか逃れるところはなく、「地獄谷」という名がついたと伝わる。

音無川 と遊船】
 古刹栄山寺の眼下に広がる吉野川は、「上下流数百メートルにわたって翠色の水面が静寂と共に深く澱み、その両岸は奇岩多く栄山寺と共に風光明媚なところ 」として、江戸時代に発刊された『大和名所図会』に紹介されている。いつからかこの場所は「音無川」と呼ばれているが、その昔、弘法大師が栄山寺にて業をなされている折、この川の激流があまりに騒がしいので水音を鎮めた ことが由来と伝わる。
 この名刹名勝を楽しもうと、かつて、栄山寺を訪れた人は船を雇って五條まで下り遊んだ のは昔懐かしい吉野川の風物であった。栄山寺から1.5kmほど下った五條側に「百間堤」と呼ばれる堤防があり、この前がかつて螢の名所だったという。現在は、この前を宇智川が流れやがて吉野川に合流するが、数十年前まではこの堤防に沿って本流の河道

があった。こうした遊船は、六倉(或いは下市)・栄山寺浦間も客に合わせて昭和30年代まで運行され、鮎料理をふるまったり鮎漁をみせたという。

遊船(地獄谷付近)

 

 また、野原の御霊神社の下は「天神浦」と呼ばれ、その靜かな流れに遊泳や釣りを楽しむ人も多く、 栄山寺浦でも昭和40年代までは遊泳や貸ボートの風景が見られた。

【吉野川の鮎漁】
 大正13年に出版された『宇智郡史』には、吉野川の鮎漁を以下のように紹介している。
 「吉野川には櫻鮎と名づくる特質の鮎を産す、昼は石打法、夜は火入法にて何れも網を以て漁す、石打法は面白き漁法なれば阪神地方より之れを見に来る者多く、火入法は最も多く漁獲する法なれば盛に行はる。而して六月一日は川開きなれば好漁家は五月三十一日の晩より漁具を携へて川辺に集まり六月一日午前零時を待つ、時至れば川中に飛び込み競ふて漁す、何れも火入法に依るものなれば幾十百の漁火暗中に揺れて水に映ずる様は実に奇観なり、之れを遠方より眺むれば筑紫の不知火も欺くやと思はる、此の景夜明けまで眺め得べし、而して此の一夜のみにても数万尾を漁すと日ふ。他に友釣法、段引法、引掛法等ありて乱漁の結果年々産額を減少す、左れば之れを保護する為めに明治三十七年より六月以前の幼魚を、大正九年度よりは引掛法を禁ぜられ、大正十年よりは漁業の課税更に厳なるに至れり。」

  6月1日の川開きには、午前0時を待って一斉に川に飛び込み狂乱している様が 楽しい。現在は見られなくなったが、昼の「石打法」、夜の「火入法」が珍しく、大阪の方からも観光客が来たという。「石打法」は“まきかわ”あるいは“まっか”と呼ばれて いて、若い頃遊船に携わっていた私の父は、この漁に参加して遊船客を楽しませたという。以下は、父の話。
 「船の上で酒もふるまったし、栄山寺浦に上陸しては鮎味噌、鮎雑炊を作って食べさせた。リクエストがあれば、『まっか』と言う鮎漁を見せた。あらかじめ船に積んでおいた拳大の石を投げて鮎を追い込 んでいく。船の上から投網がうたれると、石子(投石する人)たちがすぐに潜って網にかかったアユの骨を折り(“骨をあわす”という)、逃げないようにしてから船にあげた。当時は海から遡上する天然アユがほとんどで、そう数が捕れたわけではないから、網にかかっていないときは、ふんどしに入れておいたアユをあたかも獲物のように見せて喜ばせた。」

 鮎漁のもう1つの賑わいは産卵期である。仲間同士でにわかに「〇〇で瀬付いている」という情報がまわってくると、父は夜中でも出かけた。私も何度かついていったが、たくさんの釣り人が産卵の始まった瀬に取り付いてお祭り状態である。この場合は、段引きか瀬引きで、産卵に集まったメス・オスのアユを入れ食い状態で釣り上げる。もはや魚籠など用いず、竹で編んだビール籠がみるみるうちに一杯となる。オスはやせ細り、メスは卵まみれになっている。さて、こうして持ち帰ったアユは、串刺しにして素焼きにしたあぶり鮎、鮎味噌などの保存食となる。私は塩焼きにしたメスの卵が大好きだった。

○マキカワ(石打法)
 船1艘、石子(投石人)4人、網打1人、舵子1人
 船に拳大の石を積み込み、4人の石子によって船を中心に約30mの半円で囲み、船に向って投石を行い徐々に半円を縮めながら鮎を追いこむ。舵子は船を操作し、網打はタイミングよく小網(コダカ)を投入する。石子が水中にもぐり網にかかってもがく鮎をしめる。「吉野川の鮎狩り」と呼ばれるのは、遊船を出してこの漁法を見る船遊びである。
○立網(火入法)
 適当な石があってミズアカのよく繁殖したところを土地では“地”と呼び、この下流に大網(オオハ)を、上流には中網(チウハ)を張る。昼間の漁では、船上より両網の内に 石を投入する。夜間の漁は、松明またはカーバイトランプを点じ、両網の内を左右に振りながら上下に船で鮎を追う。
○段引及び瀬引(コロガシ釣り)
 竿の長さは川幅によって異なる。針はモドリ無しの6〜9号のものを2個背合わせにして水糸で結び、9〜15匁程度のオモリの上に針を6〜10個つけるのが段引き、オモリの下に針をつけるのを瀬引きという。川底をオモリをころがすように瀬を渡し、 アユを引っかける。主に、友釣りのための囮をとるのが目的である。
○ヒッカケ(引掛法)
 針は袖型のものを4本合せて錨状に結わい、竿の先に装着する。川にもぐって 水中眼鏡でのぞきながら、ミズアカを食んでいるアユを引っ掛ける。アユが掛かるとタコ糸で結ばれた針が竿から外れ、アユが暴れても針が外れない仕掛けとなっている。奈良県では漁期が定

 
 

マキカワ

 
 

箱漬

められている。
○友釣(※説明略)

【他の漁法】

 私が小学生の頃は、ジャコ釣りに興じた。ジャコとはオイカワのことで、ゴムシ(トビゲラの幼虫)を付けた餌釣りや毛針釣り、時には父に漬針やビン漬なども教わった。その日の獲物は「腹をして来い」と言われて、その場(川)で内臓を処理した。ジャコの頭と尾を両手で持ち、背中を手前にして二つ折りにすると内臓が飛び出す。あとは川の水できれいに洗い出す。 そして、持ち帰ったジャコはたいがい母が天ぷらにして食卓に出した。私はこれが大っ嫌いだったが、父に無理やり食べさせられた。時には、串に刺して素焼きにし、麦わらの束に刺してさらに乾燥させた保存食のようなものも作った。

○箱漬(はこづけ)
 ウナギを捕るためのモンドリと言えば、竹で編んだ円柱状のものが多いが、吉野川では箱状のモンドリを用いる。私の父自作のものを所有しているが、新しい木材を使うと魚が入らないらしくて、古い 板を用いて製作していた。ウナギが通りそうな水の流れを読み、入口を下に向けて水流と同じ方向で設置し、大きな石を上から幾つも載せて流されないようにする。箱の中には、生きたアユかまたはその内蔵、あるいはオイカワ・ミミズなどを餌として入れておき、これを一夜放置して翌朝揚げる。 井戸尻の瀬で一晩に十数匹ウナギが入っていたというのが、父の武勇伝である。
○漬針(つけばり)
 水に流されないほどの白い石を2つ選んで重しとし、その間にはえ縄漁の要領でテグス糸をくくり付け、針にはゴムシ(トビゲラの幼虫)を餌として、オイカワを捕る。ウナギの場合は、タコ糸にウナギ針を用い、餌にはヨシノボリ・オイカワ・ミミズ等をさす。ウナギは夜行性なので、夜間に設置し翌朝引き上げる。
○夜突き(よづき)
 ヤス(先が三〜四本に分かれフォーク型をした鉄製の突具)には、細竹の先に取り付けたものもあれば、胴と槍先が鉄製で一体となったものもある。夜間、カーバイトランプや懐中電灯で浅瀬の河底を照らすと、石に寄り添って静止したオイカワなどを見つけることができる。川中では静かに移動し威かさなければ、容易に突き刺すことができる。こうした漁法の場合、胴まで一体となった鉄製のヤスが水流に負けず扱いやすい。
○もんどり
 V字状に石を並べて下る魚を捕る「下りもんどり」(受けもんどり)と石で堰を作り中央に1ヵ所だけ流れを作って上る魚を捕る「上りもんどり」(逆もんどり)という方法がある。もんどりそのものは割竹で作った細長いもので、入り口は広く尻はしぼってある。上り・下り両方に使える。
 「上りもんどり」の方は、大水が出た後など、やがて流れが消えていく瀬に鋤簾(じょれん)で石をかき集めて堰を作り、本流に上り戻ろうとするウナギや小魚を捕まえた。(父・談)
○四つ手
 3〜4尺四方の網の四隅に細竹を十文字に付け、これに太竹を付けてある。網を川底に沈めては引き上げる動作を繰り返す。大水が出たときに、河岸の淵やワンドに集まってきた魚などを捕る。濁流が渦巻く河岸で行う漁なので危険が伴う。


【参考文献】
 『宇智郡史』(大正13年)
 『五條市史』(昭和33年)
 『吉野川紀行』奈良県立橿原考古学研究所付属博物館特別展図録(2009年)

 
 
   

 
   

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