Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 【大峯奥駈道/第67〜68番靡】ようお参り!山上ヶ岳

西の覗

 「関西に生まれた男の子は、一度は登っておけ!」と言われてきたのが山上ヶ岳。地元では、「山上さん、山上さん」と親しみを込めて呼んでいる。修験道のメッカであるこの山の数々の行は、昔でいう男子の元服の儀式の意味合いがあったのだろう。今では、日本国内ここでしか見られなくなった「女人禁制」の山でもある。
 吉野山の蔵王堂を起点として山上ヶ岳をめざし、山上ヶ岳の宿坊で一泊。2日目は、尾根伝いに弥山をめざし弥山小屋で二泊目。さらに、近畿最高峰の八経ヶ岳、釈迦ヶ岳を経て前鬼に降りるのが、大峰奥駈逆峰(ぎゃくぶ)の前半ルートだ。
 大峰山寺のある山上ヶ岳そのものを目指すなら、天川村の洞川登山口からの往復ルートが一般的である。「女人禁制」とはいえ、閻魔様のような門番がいるわけでもなく、また、入山許可がいるわけでもない。車止めの駐車場から清浄大橋を渡ったところに「従是女人結界」の文字を刻んだ大きな石標が建っているだけである。1970(昭和45)年までは、もっと手前の母公堂が結界門であり、それを示す石標はそのまま残されている。
 一方、「山上講」といって、かつて集落単位で組織された行者講が今も多く存在しており、地域の青年が一定年齢になると先達に導かれて山上参りをするという風習が残っている。こうした講は、洞川などに常宿をもっており、講の先達とは別に、その宿の番頭・山先達(やませんだつ)を雇う慣習になっている。この山先達は、行者装束ではなく地下足袋か長靴に杖代わりの傘というのがだいたい共通の出で立ちで、鐘掛岩や西の覗きなどの表行(おもてぎょう)も執り行ってくれる。 こうした一般庶民の山上詣も含め洞川が登拝の拠点になったのは室町時代末頃からだと言われている。
 『和州吉野郡群山記』畔田翠山(1847年)には、洞川の山先達についてこう記している。
 「役行者に仕えた前鬼・後鬼のうち、前鬼は前鬼山(現下北山村)に、後鬼は洞川(現天川村)に住み着いた。その昔は後鬼6人いたが、次第に血脈他家より入り乱れるようになった。山上参詣の際の山先達は、この後鬼の筋目の者より出していた。山先達は行場への案内役などを担い、その夜から宿に来て明朝案内する。」

 多くの山では、登山客同士がすれ違う際、どちらからともなく「こんにちは」と声をかけあう習慣があるが、ここでは「ようお参りっ」のあいさつに代わる。最初は戸惑いもあるが、徐々にこの言葉がなじんでくる。山伏姿の修験者や法螺貝の響きも日常的な光景。講の場合には「懺悔 懺悔 六根清浄」の大合唱が響く。2004年世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」の所以が、こうしたところに垣間見られる。ちなみに、世界遺産に登録されている「道」は、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(スペイン・フランス)」とここの2ヶ所だけである。

【死に行く旅・表行】
 山上講の場合、前日に龍泉寺で水行を行って身を清め、夕食は精進料理をいただいて深夜出発という日程が多い。県道大峯山公園線の終点が登山口で、赤い清浄大橋を渡り黒い発菩提心門をくぐる。途中、登山道をアーケードのように覆ったお茶屋があるのがこの参詣道の特徴で、初めての人は身構えるかもしれない。最初の一本松茶屋は営業していないが、洞辻茶屋や陀羅尼助茶屋は週末や繁忙期のみ営業し、ビールやジュースなどの飲み物の販売や焼き印を押してくれたりする。洞辻茶屋は洞川区の財産で、入札で落札した区民が5年間営業を請け負っている。椅子に腰かけてお茶を呼ばれるだけなら無料である。
 洞辻茶屋に続いて陀羅尼助茶屋を過ぎると、いよいよ表行場が始まる。道は登山路と近年拓かれた下山路の二股に分かれているが、かつてこの辺りで新しい草鞋に取り替えたという「草鞋替場」があり、戦前・戦後しばらくまでは、投げ捨てられ周囲の梢に引っかかった幾百もの草鞋が見かけられたという。まず、「油こぼし」という名の鎖場。そして、次の「鐘掛岩(かねかけいわ)」は、西の覗と共に表行最大の行場となる。手にする岩や足をかける岩が、左右きっちりとマニュアル化されており、山先達に指示された通り身を預ける。なんとか難所をクリアし、その安堵感と共に岩の頂で一息つくと、図ったように(いや実際、時間を計っている)御来光との遭遇というのが、山上講の計らいだ。「登山」として登って来た人は、山先達の導きなしではとても危険なので、迂回ルートをとるべきである。鐘掛岩を過ぎれば、まな板のような平板な石が横たわる「お亀石」。現在は玉垣で囲まれているが、「お亀石 踏むなたたくな杖つくな よけてとおれよ 旅の新客」という秘歌がある。
 そして、いよいよクライマックスは「西の覗」。登山客の場合も、少し先の宿坊にお願いすると有料で体験できる。携行品は、メガネや時計に至るまですべて取り外し、両肩にロープを架けられ、断崖絶壁に這いつくばる。先達はロープを持ち、同行者は足を片方ずつ持つよう指示され、当事者はさらに身を乗り出して手を合わせる。先達の呪文の後、学生なら「親孝行するか」「勉強するか」と問いただされるが、この状況の中では"YES"の選択肢以外はない。「はいっ」と返事を返したはずなのに、さらにずるっずるっと身を空中に向かって押し出される。実際は、頭一つ空中に突き出した程度なのだが、体半分が宙づりになったような錯覚を覚える。身を乗り出した断崖絶壁の下は少し内側にえぐられており、そこに仏さんを祀ってあるから覗けというのだが、メガネを外したので私には何が何だか分からなかった。
 あとは、ゆっくりと大峯山寺まで歩き、般若心経を唱えて行のクライマックスを終える。大峯山寺は、毎年5月3日に戸開式(とあけしき)、9月26日に戸閉式(とじめしき)が行われる。この寺院は、「護持院」と称される5つの寺院(桜本坊、竹林院、東南院、喜蔵院、龍泉寺)が交替で維持管理に当たっている。また、護持院それぞれの宿坊が本堂手前に立地しており、信者だけでなく一般登山者も山小屋代わりに宿泊できる。大峯山寺には、役行者が水鏡に写した自らの姿を彫り上げたという秘仏があり、一般客も、戸開式後と戸閉式前の数時間だけ拝観できるという。
 山上ヶ岳山頂(1719m)は、お花畑と示された方を進めばすぐだが、お花畑の方は期待できずミヤコザサの笹原になっている。祠の近くに湧出岩というのがあり、そこが山頂である。 先の『和州吉野郡群山記』によると、「お花畑の西南の方に、巌の大なるがあって、山上の僧が死ねば、この巌の上より投げ落とした山上の墓所である。」と記されている。この「巌の大なる」は、「日本岩」のことである。

 
鐘掛岩   大峯山寺(第67番靡)
   
油こぼし   龍泉寺での水行   洞川登山口の結界門

【再生の旅・裏行】
 表行が「死に行く旅」に対して、裏行は「再生の旅」と言われている。大峯山寺本堂裏手が裏の行場となっているが、先達の案内なしでの立ち入りが禁止されている。登山客であっても、それぞれの宿坊に頼めば、有料で体験できる。
 喜蔵院宿坊の左手を進んでいくと裏行場の入り口となる。「不動登り岩」「押し分け岩」「護摩の窟」「胎内くぐり」「屏風岩」「賽の河原」…「東の覗き」「蟻の戸渡り」「平等岩」といった名前の行場が続く。この中に、表行の西の覗きに対して、「東の覗き」というのがあるが、極めて危険なため現在は中止となっている。しかし、西の覗に匹敵する恐怖心を試されるのが「平等岩」である。三角錐状の岩を両手でしがみつきながら、断崖絶壁をくるっと回ってくる行であるが、自分の腕だけが命綱という荒行である。平等岩での行を終えるとやや放心状態、あるいはちょっとしたクライマーズ・ハイだろうか。行場から解き放たれ、軽くなった足取りで、大峯山寺本堂脇に出てくる。講での団体行動なら、ここで般若心経を唱えて行の終了ということになる。

 
平等岩   東の覗
   
蟻の門渡り   押し分け岩   胎内くぐり

【五番関から洞辻茶屋へ】
 洞川毛又大橋よりより林道高原洞川線を上っていくと、五番関トンネルの西側に登山口があり駐車スペースもある。ここから約15分の急登で五番関に到着。吉野山から大峯奥駈道を逆峰してくると、1970年(昭和45) までは、吉野山奥千本に近い青根ヶ峰付近から女人結界だったが、現在は、ここ五番関に女人結界門が設けられている。
 途中、鍋を被った行者尊が祀られお堂が建っている。その昔、大峰山中で修行をしていた役行者を、大蛇が口から火を噴いて修行の邪魔をしていたので、行者は鍋を被ってその難を退けたという故事にまつわるものらしい。いずれにしても珍しい行者像である。さらに進むと今宿跡と表示された明るい林に出るが、行場らしき石積みと残された碑伝が目に入るくらいが痕跡である。ここから尾根伝いに1時間弱で洞辻茶屋に到着、清浄大橋からの参詣道と合流する。 ここは大峯奥駈68番の靡「浄心門」である。

 
五番関   鍋冠行者堂
 
今宿跡   洞辻茶屋(第68番靡浄心門)

【所要時間】
 ○ 清浄大橋・・・洞辻茶屋 (上り・約1時間30分)
 ○ 五番関・・・洞辻茶屋  (上り・約2時間10分)
 
○ 洞辻茶屋・・・大峯山寺 (上り・約1時間10分)

 
 
   

 
   

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