2019年(令和元年)、新天皇即位の御祝として、大峯山寺本尊である蔵王権現が12年ぶりに特別御開帳された。この機会を大事にしたいと思い、8月中旬、台風10号が西日本に接近しつつあるなか山上ヶ岳を目指した。今回の目的は、以下の通り。
○小普賢岳付近の経筥石(きょうばこいわ)
○大峯山寺本尊蔵王権現を拝観
○小篠の宿でテント泊
○柏木道を踏破
大普賢岳から北へ奥駈道を下っていくとやがて経筥石(経函石)を示す道標と大きな錫杖が現れる。しかし、経筥石を見つけるには、ここから東の方向に続く踏み跡を注意深く辿っていかなければならない。ゆるやかな傾斜を上り、今度は木の根やロープをたよりに数十メートル崖を下っていくと、お目当ての経筥石をくりぬいた岩壁が目に入ってくる。役行者が法華経を埋納した場所と伝わっているが、8世紀には存在していたと考えられている。岩に掘られた直方体の空間は、大人が手を伸ばせば届くところにあり、かつて、蓋のようなものもはめ込まれていたのか溝が施されている。現在のところ、なにかしらの偶像が置かれるわけでもなく、むしろこの小さな空間が大きな聖域を発している。
大峯奥駈道に戻り、脇ノ宿を経て阿弥陀森に着くと、木製の女人結界門が待ち受けている。1970年(昭和45)に、女人結界が小篠の宿からここまで広げられたそうだ。阿弥陀森は第65番の靡であるが、こうした場所には講や修験者たちが巡礼した際に残していく碑伝(ひで)が重ねられている。修験道の聖地である奥駈道らしい風景である。
『大峯々中秘密絵巻』(1787年桜本坊)の「小篠の宿」には47軒もの建物が描かれ、その多くは宿坊だったと見え、当時の賑わいを知ることができる。山上ヶ岳や山上の蔵王堂まで、私の足で45分という近さに加え、豊富な湧き水が絶えることなくこんこんと流れており、奥駈順峯の行者や柏木道からの参拝者が利用したと思われる。こうした宿坊も、1872年(明治5)の修験道廃止令以降、急速に廃れたようで、現在は、行者堂、石造りの護摩炉(元禄九年銘)、不動明王像、聖宝座像などが往時の賑わいを物語っている。また、数々の石垣も残っており、かつて軒を並べた宿坊の名残を読み取ることができる。
『和州吉野郡群山記』畔田翠山(1847年)によると、小篠の宿を以下のように紹介している。
「山上の坊に一泊して、翌日、小篠の坊に着くと、赤飯を膳に出してくれるだけで特に賄いはなかった。小篠の入口には関所があって、山銭三匁を出すが、熊野へ通り抜ける人は山銭四十三文出すことになる。小篠には、瓦葺きの約五間(9m)四方の本堂があり、左には本山派、右には当山派の木塔婆がある。本堂の前には護摩壇、堂の前と左には板葺き板壁の坊が数軒軒を並べている。これらの坊に泊まる者あれば、夜半になると坊の若者が板屋の上に上って走ったり、板屋を押したりして戯れ、中にいる者は恐れて固まってしまうのを面白がっている。」
現在は、避難小屋もあり、4名ぐらいの寝床が確保できるだろうか。またテント泊もよし、ここで一夜を明かす趣向を是非お薦めしたい。
役行者は、金峯山で蔵王権現を感得し、それを刻んで蔵王堂を建てたとされ、吉野山の金峯山寺蔵王堂は「山下(さんげ)の蔵王堂」、大峯山寺本堂は「山上の蔵王堂」と呼ばれた。江戸時代まで、両者は「金峯山寺」という一つの寺院であったが、1872年(明治5)に修験道廃止令が発布され、「金峯山寺」も廃寺に追い込まれた。その後、「山下の蔵王堂」は天台宗修験派の寺院「金峯山寺」として再興が図られ、「山上の蔵王堂」は「大峯山寺」として分離された。現在、「大峯山寺」は、桜本坊(金峯山修験本宗)、竹林院(単立)、東南院(金峯山修験本宗)、喜蔵院(本山修験宗)、龍泉寺(真言宗醍醐派)の5か寺(護持院)によって交替で維持管理されている。
現在の大峯山寺本堂は、1691年(元禄4)に再建されたそうだが、金峯山寺の蔵王権現は、7mもの高さで瑠璃色に彩色され、圧倒的な迫力と存在感で迫ってくるのに対して、この度ご開帳された大峯山寺の秘仏蔵王権現は、薄暗い堂内で柔らかな輝きを放つ金銅仏であった。高さも2mを満たず、まるで弥勒菩薩のような優しさと柔らかさを私自身の印象として持ち帰った。堂内内陣には、さらに2体の秘仏があり、いずれも役行者像であるが、一つは若い頃の行者、もう一つは歳老いて行者自らの姿を水鏡に写して彫ったとされ、戸開式・戸閉式の際に拝観できる。 |