梅雨入りして間もない6月中旬、天川村の観音峰にちょっと珍しいヤマシャクヤクが開花すると聞く。川合から洞川にむけて九十九折の県道を上りきり虻トンネルを抜けると、すぐ左手に観音峰登山口及び駐車場が現れた。この日午前11時に到着すると、駐車場はすでに満車。すぐ下の山上川での川遊びやミタライ渓谷遊歩道をハイキングする客も混じっての盛況だと思えるが、やはりあの幻の花が目当ての登山客が多いと思われる。
コアジサイやフタリシズカの咲く山道をしばらく登っていくと、このハイキングコースの整備の良さに気づく。なかでも、「奥吉野天川南朝物語」のレリーフは、アースカラーの登山道に不釣り合いだと違和感を感じるが、一方で小休止を兼ねて南朝の歴史をたどっていくには退屈しない趣向である。いつにない潤沢な公共事業の手が入ったのだろうか、立派な休憩所も観音平に整備されており、実はこのあたりから、この山の植生や歴史が面白くなってくる。
【南朝物語】
観音峰は独立峰ではない。大峰修験者が利用する奥駈道は、吉野山から尾根沿いに山上ヶ岳へ通じており、さらに山上辻、法力峠を経て観音峰(1347m)に至ることもできる。
1332年、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王は、吉野山での挙兵に失敗し、天川郷に落ち延びてきた時も、このルートを利用したのだろうか。その時隠れた岩屋というのが、観音平から少し上に存在する。かつて、皇子が詠んだ「よしの山 花も散るらん天の川
くものつつみを くずすしらなみ」という歌を刻んだ石灰岩がお歌石として知られていたそうだが、いつしか風化し行方不明となってしまった。そこで新たにこの歌を刻んだ「新・お歌石」が、観音平に建立されている。
また1348年、四條畷の戦いで楠木勢が破れて吉野行宮が陥落し、後村上天皇ら南朝一行が再び吉野山から賀名生へ逃れる際も、やはりこの岩屋に籠も
ったという。その時、天皇の夢枕に十一面観音が現れたといい、この山の名前の由来にもなっている。
このあたりは大きな石灰岩があちこちに露出しており、この岩屋もその造形物の1つである。この石灰岩層が雨水や地下水で浸蝕され、付近にはいくつかの大きな鍾乳洞も見られる。親王や天皇を守る大勢の一行が、たとえ一夜でも潜んだとするなら、洞川にある面不動鍾乳洞や五代松鍾乳洞も歴史に伝わる岩屋の可能性も否定できない。ちなみに名水百選のごろごろ水は、この石灰岩層から湧き出ている。
【ベニバナヤマシャクヤク】
やがて樹海が開け、ススキヶ原が広がると展望台を示すオベリスクが現れる。ここからは東に大日山、稲村ヶ岳、南に弥山、八経ヶ岳と大峰山系がパノラマのように広がる。観音峰山頂はもう少し先で、ミズナラやブナの林のなか尾根伝いに歩くと山頂に到着するが、眺望は全く開けておらず、法力峠までの通過点に過ぎない。となると、先の展望台こそハイキングの目的地点でもいい様な気がする。
しかも、この展望台周辺こそ、奈良県では絶滅寸前種、環境省では絶滅危惧II類(VU)に指定しているベニバナヤマシャクヤクの自生地なのである。半日日陰を好むヤマシャクヤクは、林縁に見え隠れしており、保護のためのロープに身をよじりながら弾んだ気持ちでカメラを向ける。ところが林縁の反対側にひろがるススキヶ原の中にも、ぽつぽつとベニバナヤマシャクヤクが株立で見られる。こんな日当たりのよすぎる乾燥地でも育つのかと首をかしげながら、こちらでは自由なアングルで撮影を楽しむことができた。ヤマシャクヤクはボタン科で、その花ぶりは日本の山野草らしからぬ派手な容姿だが、それに加え薄紫色の花弁となれば、園芸種が標高1200mの山腹に自生しているような半ば不自然さが面白い。やっぱりだれかが植えたのではないかと、未だに疑心案議のさせるほどの美しさである。
【ジギタリスの猛襲】
さて、ここ標高1200mに開けたススキヶ原はいったい何を意味するのか。この地域の昔からの萱場なのか、それとも造林放棄地か。いずれにしても人の手が頻繁に加わることで、遷移を止めている。そういえば、観音平から展望台までの自然林のなかに、ケヤキの大木が目についた。この地域のこの標高この地形に、ケヤキはなじまないだろうと突っ込みを入れたくなったが、展望台から東に、今度はクヌギを見つけた。いずれも人里の臭いのする樹木である。
一方、この原っぱには「ジギタリス」という外来種が目立つ。こちらは明らかに人為的な園芸種で、同じくピンク色の花を咲かせて、猛烈ない勢いで自生地を広げ、ベニバナヤマシャクヤクを脅かしている。これまた、なぜここに。ジギタリスは猛毒がある一方で、強心剤としての薬効もあり、うっ血性心不全の特効薬として有名らしい。この植物の異常な繁殖は、地元でも危惧しており、除草のためのボランティアを募ることも行っている。 |