Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 女人大峯の大日山・稲村ヶ岳

紅葉の大日山

 母公堂(ははこうどう)は、役の行者が大峯山で修行をしていた時、母がこの地まで訪ねて来て、下山してきた息子と会ったとされている場所で、現在は立派なお堂が建っている。 この母公堂の前に有料駐車場(10台 程度)があり、洞川の赤井五大松がノミとツルハシをもって一人で切り拓いたという五大松新道への登山口(889m)がある。距離は長いが、比較的緩やかな登山道が続き、法力峠(1217m)で一息つく。この峠を西に折れると観音峯山(1347m)に向かうことができる。観音峯を越えた観音平というところには、吉野山での挙兵に失敗して落ち延びてきた大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の隠れたという窟がある。 また、6月中旬には、ベニバナヤマシャクヤクを目当てに登山客が賑わう。
 法力峠から山上辻の稲村ヶ岳山荘(1550m)までは、ミズナラやブナ、カエデ類などの落葉広葉樹林が増え、10月中旬には紅葉を楽しむことができる。母公堂から2時間 余り。小屋のある鞍部は風が吹き抜ける通り道となっており、西風が強いのか小屋は東斜面に埋もれている。この小屋から山頂へ延びる登山道沿いには、見事なシャクナゲの群生地が見られる。

【大日山・稲村ヶ岳】
 国土地理院発行の地形図によると、標高1726.1mの三角点がある峰を稲村ヶ岳と呼び、標高1689mのピークは大日山としている。しかし、かつては 、大日如来の祀られた現大日山の方が、雨乞いを祈願する山として信仰を集め、こちらを稲村ヶ岳として重んじてきた経緯があるようだ。少し前向きに烏帽子を垂れたような大日山の容姿は特徴的で、 稲村ヶ岳との間の大きなキレットを目印に、奈良盆地や金剛山麓からも容易に見つけることができる。ガイドブックによっては、これら2つの峰を併せて稲村ヶ岳と呼称しているものもあり、それがいいのかもしれない。
 『和州吉野郡群山記』畔田翠山(1847年)によると、雨乞いの手順が次のように記されている。
 「稲村嶽(現在の大日山を稲村嶽と称していた)の山頂には大日の像があり、この社に詣でて雨乞いをする。洞川より夜中松明を照らしてこの峰に登り、蝋燭に火をともして神に供え、その火を布縄につけて郷に帰る。いかに遠くても宿することはならず、昼夜を通して歩かなければならない。大日の社から持ち帰った鉄製の券を郷に持ち帰れば、雨が降る。そして、新たな券を作り、再び稲村嶽に登って社内に納めなければならない。」
 この山は女人禁制ではなかったが、山上ヶ岳に近いこともあり女人の登山ははばかられていたようである。1960(昭和35)年、龍泉寺が女人禁制を解いたのを機に、正式に女性に開放された。龍泉寺はここを女人修行の行場とし、行者講などを通じてこの山で修行した女性に対し先達などに補している。未だ女人禁制の山上ヶ岳に対し、「女人大峯」と呼ばれているのはこうした所以だ。
 大日山の山頂へは、鉄梯子などを利用して岩場をよじ登っていくのだが、十分な注意が必要である。山頂には、いずれも祠に納められた2体の大日如来がお迎えしてくれる 。右手の方の祠には、昭和32年5月建立の石碑が建てられているが、左手は不明である。
 一方、狭義の稲村ヶ岳の山頂は、三角点もそっちのけで、ピークを覆うように大きな展望台が設置されていて興ざめしてしまう。しかし、近年、稲村ヶ岳の方は、宝剣探しを登山の楽しみに加える人が増えてきた。以前は、その所在地の情報が乏しく、まさに宝探しの様相であったが、登山地図アプリによって共有しやすくなった。「昭和23年5月奉納」の銘がある宝剣は、重厚な鉄製の台座に据えられている。雨乞いに関わった奉納だろうか、正面は北側で、背後に稲村ヶ岳の峰がそびえる配置である。

【稲村ヶ岳登山ルートの考察】
  奈良県で生まれ育った者として、県内の山の事故や遭難には常々大きなアンテナを立てている。その結果、とりわけ弥山川、大普賢岳、稲村ヶ岳などに大きな事故が多いという印象がある。稲村ヶ岳の場合、先にも紹介した母公堂からの登山ルートが一般的で、このルートのどこに落とし穴があるのだろうかと考察してみた。
○ 法力峠〜山上辻間の区間は、切り立った斜面に登山道が敷かれており、しかも道幅が狭い上、岩礁を削ったトラバースもある。したがって、ひとたびバランスを崩し谷側に転んでしまうと、数十メートル以上の滑落も覚悟しなければならない。水分補給やスマホの操作、リュックの上げ下ろしなどは、必ず立ち止まって行うべきである。
○ 計画的に豪雪期に登る人は、それなりの技術と準備を用意しているだろうが、晩秋や春先の思わぬ積雪や凍結に伴って発生する事故も多い。アイゼン等の不携帯でスリップすれば、やはり数十メートルの滑落となる。そうした時期のアイゼンの携行は言うまでもなく、無積雪期であってもシュリングやカラビナ、ヘルメットはお守り代わりとなる。
○ 先のルートとは別に、稲村ヶ岳山荘のある山上辻から、レンゲ辻を経由して清浄大橋に下るルートがあるが、こちらは法力峠〜山上辻間のルート以上に注意が必要である。前半は、尾根筋の南側を歩くが、鞍部で尾根をまたいで北側に出たところから急峻な斜面に築かれた登山道となる。積雪や凍結の恐れがある場合、装備と技術がなければ引き返すべきである。また、レンゲ辻からの下り道も、途中から渓流の流路に沿った道であるため、浮き石も多く足元が非常に不安定である。
 以上、私のささやかな経験から思うところを書き留めてみたが、1つでも参考になるところがあれば幸いである。

 
  山上ヶ岳より稲村ヶ岳・大日山
 
遠方からも望める大キレット  

稲村ヶ岳三角点

 
大日山山頂   大日山山頂へのアプローチ
 
大日山山頂、2体の大日如来    
 

宝剣

 

イワカガミ

 
レンゲ辻   山上辻〜レンゲ辻間のトラバース、岩場で滑りやすく危険
 
母公堂   稲村ヶ岳山荘

【稲村礫岩層】
 紀伊山地は、フィリピン海プレートが沈み込んでいく際に堆積物が剥ぎ取られていった幾重もの「付加体」によって形成されている。大きく分けると、古い方から「秩父帯」そして「四万十帯」と続く。稲村ヶ岳周辺は、ジュラ紀にできた秩父帯の泥岩層である。ところが、大日山を見上げながらその基部から稲村ヶ岳へ延びる登山道沿いの岩壁には、握りこぶしより大きな丸い礫がぎっしりつまった礫岩層が見てとれる。先の泥岩層は海の底深くに堆積したものだが、後者の礫岩層は、陸上から土石流がどんどん流れ込むような陸地の川に近い海底でしか作られない。
 つまり、ジュラ紀にできた泥岩層が剥ぎ取られて付加体となり、やがて隆起して陸地となる。さらに浸食を受けながら平坦な陸地となるが、再び沈降して海底となり、そこへ土石流が流れ込んで礫岩層が堆積した。そして、もう一度隆起して稲村ヶ岳の原形ができあがったとされている。(参照:『大峯山・大台ヶ原山』大和大峯研究グループ
大日山及び稲村ヶ岳に山頂付近にみられる礫岩層は「稲村ヶ岳礫岩層」と命名されており、容易に確認できる。一方、登山道には泥岩層が露頭しているところがある。堅い泥岩層の上に堆積したと礫岩層は比較的もろいため、そこを削って登山道が敷かれたのかもしれない。標高1700m付近に見られる礫岩を是非確認されたい。

稲村礫岩層

 
ほぼ歩道を境に、上が礫岩層、下が泥岩層   足下には堅い泥岩層
 
 
   

 
   

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