Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 日本のアンコール・ワット高取城

11月下旬はイロハモミジが紅葉


巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城
 寛永17年(1640年)、旗本の植村家政が2万5000石の大名に取り立てられ高取城の新たな城主となった。以後、明治維新まで植村家が14代にわたって城主をつとめる。現在も、旧城下町の町家が高取城から壺阪山駅まで一直線にのび 、「土佐街道」と称されている。この通りに面しては、高取藩の筆頭家老屋敷が現存し、今なお旧藩主植村家の居宅として使われている。
 高取城は、美濃岩村城、備中松山城と並んで日本三大山城の1つとして数えられ、標高583.9mの高取山山頂に築かれた天険の要害である。版籍奉還によって兵部省の管轄となり、明治6年(1873年)廃城となる。明治20年(1887年) 頃まで、天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたらしいが、その後、取り壊しが行われた。現在は石垣のみで、建造物は何 一つ残っていない。白亜の天守閣をもつかつての高取城は、「巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」と歌われ、城内にその歌碑が建てられている。奈良盆地からの高取城遠景を歌ったものらしく、高取山中に長く連なる白い土塀と天守閣が、あまりにも見事だったのだろう。

 実は、司馬遼太郎氏もここを訪れ、『街道をゆく(七) 甲賀と伊賀のみち』で、以下のような記述を残した。
 「高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。」(以上、抜粋)
 アンコール・ワットとは、遺構としてこれ以上ない評価をうけたものだが、人里離れた山頂にあることが幸いしてか、石垣等の遺構はほぼ当時の状態をとどめている。しかし、取り壊しから120年余りたった今、植林されたスギやヒノキが 人工林を形成し、雑木と共に屋敷跡や門跡の石垣を覆っている。天守閣があった山頂付近はイロハモミジやケヤキが植樹され、 ハイキングコースとして整備され紅葉の人気スポットでもある。では、以下に4つのルートを順に紹介したい。

【土佐街道ルート】
 最もポピュラーなルートは、壷阪山駅から土佐街道の町並みを通って宗泉寺、猿石、大手門に至るルートである。土佐街道の街なみは、旧城下町の雰囲気を残した町家が大手筋沿いに立ち並び、街道の両側には水路が流れている。高取藩主の下屋敷表門が移築された石川医院、なまこ壁が城下町の雰囲気を漂わせている植村家長屋門など見どころも多いが、一直線に伸びた街道の先には高取城天守がそびえる構図になっている。途中、砂防公園が整備されトイレも設置されている。植村氏の菩提寺である宗泉寺との分岐路にさしかかれば、駅から山頂までのほぼ中間点(約1時間)、さらに山頂までが約1時間となる。歩道沿いに小川が右左と交錯するが、ツクバネガシの幼木やヤブツバキが育ってきているのは、廃城後120年たった照葉樹林帯への遷移の証しだろうか。
 七曲りを登りきると、「二ノ門」手前で猿石が現れ、明日香村栢森からのルートと合流する。ここの猿石は高取城築城の際、石垣に転用するため明日香から運ばれたといわれているが、その難から逃れたお猿さんはにっこりとお地蔵さんと化している。一升坂付近 からは屋敷跡や門跡の石垣がさらに多く見られ、司馬氏のいうアンコールワットが見え隠れする。「国見櫓」跡には是非立ち寄られたい。奈良盆地への眺望が開けており、土佐の城下町や大和三山も眼下に見下ろすことができ、遠景には金剛山・葛城山・二上山が浮かび上がっている。
 「大手門」手前で吉野ルートからの歩道と合流すると、ここから撮影されたと思われる明治20年頃の「太鼓櫓」付近の写真が掲示されている。この付近には、ケヤキやスギの巨木が目を引く。先の写真に写っていないことから想像すると、樹齢100〜120年までというところだろうか。

 「太鼓櫓」の石垣を見て、若い頃にこの石垣をよじ登ったことを思い出した。足を引っかけるのにちょうどよい隙間があり、見上げればさほど高くもない。ロック・クライミングのまねごとを試みたものの、真ん中までとりついたあたりから足がふるえだした。引き返すには足下高く、登り切るにはまだ高さがある。後悔も後のまつり、結局登りきるしかなかったような記憶が残っている。ボランティアガイドの説明によると、石垣の辺部分は算木積みで反りのない工法。これ以降の城郭の石垣は反りを用いた工法が多いことから、古いタイプの山城の特徴らしい。
 「本丸」周辺には、植栽されたイロハモミジや自生したモミがけっこう大木に育っている。ここから吉野方面を望む眺望が開け、晩秋 から冬にかけては、雪をかぶった大峰山系が美しいことだろう。「天守台」には、標高583.9mの三等三角点の石碑が設置されている。砂防公園から山頂まで約1時間30分。

一直線に伸びた街道の正面に高取山(左は旧藩主植村家住宅)

 
移築して柱・梁・門扉のみ復元された松ノ門   松ノ門跡
 
水堀   国見櫓からのぞむ奈良盆地
 
宇陀口門跡   太鼓櫓・新櫓(昭和47年に修復された石垣)
 
「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」の歌碑   高取山三角点

【壺阪寺ルート】
 西国三十三所観音霊場の第六番札所であり、本尊十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験あらたかとして隆盛をほこってきた壺阪寺だが、明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語である『壺坂霊験記』が、人形浄瑠璃や歌舞伎、講談、浪曲で演じられ、さらに壺阪寺その名は広まった。さらに、昭和39年より、インドでのハンセン病患者救済活動にも取り組み、その縁で天竺渡来大観音石像、大釈迦如来石像、大涅槃石像が次々と建立されている。
 その壺坂寺に至る車道は、さらに壺坂口門
近くまで延びており、路肩駐車をして山頂をめざすのが最短ルートである。一方、この車道の途中に、「五百羅漢」を経由して壺坂口門に至る登山口があり、ハイキングを楽しむには、車道ではなくこちらから入る。 「五百羅漢」と呼ばれる磨崖仏群は山腹の自然岩を利用して彫られたもので、室町中期に本多氏が高取城築城に際して石工に刻ませたと伝わる。眼前の石仏にカメラを向けていると、足下に 突き出た岩につまずいてしまいそうである、こうした岩にも石仏の顔らしきものが刻まれており、風化して転がり落ちたと思われる。すぐ近くには、新五百羅漢の真新しい石仏群が安置されていた。 壺阪寺から「壺坂口門」まで約1時間。
 「壺坂口門
」「壺坂口中門」を経て「大手門」に至り、「本丸」をめざすというのが一般的であるが、車道をさらに行き止まりまで歩くと、「七つ井戸」と呼ばれる上り口があ る。この石段の途上には、石垣造りの井戸が4つ見られ、下から見上げた時の石垣の重なりが見事な造形を築きあげている。

五百羅漢

 
壺阪寺   壺坂口ルート入口
 
崩落した岩石にも羅漢が刻まれている   壺坂口門
 
大手門から見た壺坂口方面   七つ井戸

【栢森ルート】
 明日香村の綱掛神事は、稲渕の「男綱」と栢森(かやのもり)の「女綱」が伝わっており、飛鳥川をまたいで綱を渡し、悪疫が川や道路をとおって進入するのを防ぐと共に、子孫繁栄と五穀豊穣を祈るための神事である。この女綱が掛かっているところを目印に川を渡ると、高取城への登山口である。標高220m付近の登山口から小さな谷に沿った山道を標高350mの尾根まで登ると、小さな地蔵が出迎えてくれる。今度は、尾根道をしばらく添うと、立派な石積みの堀切が現れる。ここが「岡口門」のあった場所である。かつての登城路は、この堀切の上を通っていたわけだが、現在の登山道は、後に堀切を避けるように作られており、獣道のように見えてしまう。この堀切と岡口門は、どんな位置関係で立っていたのか想像を膨らませるほかない。さらに登山道を進むと、左手に石垣の壁が見え隠れする。屋敷跡というより道を補強した石垣と思われ、登城路は尾根筋に添って築かれていたようだ。
 二ノ門手前で、土佐街道から延びてきたルートと合流するが、ここにお地蔵さんのように猿石(前述)が置かれている。二ノ門左手には水堀が残っており、今もなみなみと水を蓄えている。女綱から猿石まで約1時間。

猿石

 
女綱から対岸に見える登山口   石地蔵
 
岡口門跡に残る堀切   登城路の石垣
 
二ノ門手前の三叉路に猿石   二ノ門

【芋ヶ峠ルート】
 持統天皇の吉野行幸ルートとして、芋ヶ峠(芋峠)を越えていく古道がある。現在は、明日香村栢森から吉野町千股に車道が通っており、明日香村、高取町、大淀町、吉野町と4つの町村が接している境界点を芋ヶ峠としている。竜在峠から尾根伝いに南西に延びてきた山道は、この芋ヶ峠と交差しており、そのまま直進すれば高取城(高取山)に通ずる。高取城を起点に考えると、この芋ヶ峠に向けて伸びる道の出入口として「吉野口門」があり、今回は、芋ヶ峠から「吉野口門」をめざす。
 芋ヶ峠からは、尾根伝いの山道とコンクリート舗装された林道の2本が、高取山に向かって伸びている。古の山歩きを重視するなら前者であるが、針葉樹林の薄暗い森を通っており木々の変化は少ない。一方、後者の林道は舗装道路で歩きやすく、秋になると道が見えないほど落葉広葉樹の落ち葉が積もっており、日差しを浴びながら快適である。両者はやがて合流し、舗装道路も終点を迎えると、そこからは平坦な山歩きとなる。
 高取山山頂が見え隠れしてくる頃、突然、堅固な石垣を積み上げた「弥勒堀切(みろくほりきり)」が現れる。かつての登城路である。石垣の上に登ってみると左右は谷で随分高さを感じると共に、ここに架かっていた木橋を落としてしまえば、瞬時に要塞と化したのではないかと想像してみる。その後も、名前の分からない堀切に出くわしながら、本丸が近づいてきたことにわくわくする。ついに、「吉野口門」と書かれた標識にたどり着くが、標識の向こうに見える小さなキレットがその門なのか。縄張図と照らしてみると、「吉野口門」は歩道に沿ってもう少し先にあり、左手に石垣が見えるあたりに 「吉野口門」のあったことが分かる。しかも、足下を見るとここに堀切の会ったことも分かる。さらに進むと、右手に「吉野口郭」の屋敷跡だろうか、広い平地が残っている。左手には高い石垣が続き、井戸跡なども残っている。やがて、「大手門」に達し、それまでほとんど出会わなかった人影が賑やかになる。芋ヶ峠から「大手門」まで約1時間。

弥勒堀切

 
芋ヶ峠古道   付近の石仏が集められたのか(芋ヶ峠)
 
芋ヶ峠からの高取山への林道   芋ヶ峠から高取山への登山道
 
縄張図から判断した「吉野口門跡」付近   大手門
 
 
   

 
   

Copyright (C) Yoshino-Oomine Field Note