Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 高取城

一直線に伸びた街道の正面に高取山(左は旧藩主植村家住宅)


巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城
 
寛永17年(1640年)、旗本の植村家政が25000石の大名に取り立てられ高取城の新たな城主となった。以後、明治維新まで植村家が14代にわたって城主をつとめる。現在も、旧城下町の町家が高取城から壺阪山駅まで一直線にのび 、「土佐街道」と称されている。この通りに面しては、高取藩の筆頭家老屋敷が現存し、今も旧藩主植村家の居宅として使われている。
 そもそも高取城は、美濃岩村城、備中松山城と並んで日本三大山城の1つとして数えられ、標高583.9mの高取山山頂に築かれた天険の要害である。しかし、版籍奉還によって兵部省の管轄となり、明治6年(1873年)廃城となる。明治20年(1887年) 頃まで、天守をはじめとした主要建造物は城内に残っていたらしいが、その後、取り壊しが行われたようである。現在は石垣のみで、建造物は何 一つ残っていない。白亜の天守閣をもつかつての高取城を詠んだ歌として、「巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」が伝わる。奈良盆地からの高取城遠景を歌ったものらしく、高取山中に長く連なる白い土塀と天守閣が、あまりにも見事だった ことが忍ばれる。
 

実は、司馬遼太郎氏もここを訪れ、『街道をゆく() 甲賀と伊賀のみち』で、以下のような記述を残し た。
 「高取城は、石垣しか残っていないのが、かえって蒼古としていていい。その石垣も、数が多く、種類も多いのである。登るに従って、横あいから石塁があらわれ、さらに登れば正面に大石塁があらわれるといったぐあいで、まことに重畳としている。それが、自然林に化した森の中に苔むしつつ遺っているさまは、最初にここにきたとき、大げさにいえば最初にアンコール・ワットに入った人の気持がすこしわかるような一種のそらおそろしさを感じた。」(以上、抜粋)

 アンコール・ワットとは少々風呂敷を広げすぎたと思うが、人里離れた山頂にあることが幸いしてか、石垣等の遺構はほぼ当時の状態をとどめている。しかし、取り壊しから120年余りたった今、植林されたスギやヒノキが 人工林を形成し、その隙間を埋めるように雑木が屋敷跡や門跡の石垣を覆い尽くしている。また、天守閣があった山頂付近はイロハモミジやケヤキが植樹され、 ハイキングコースとして整備されている。私の場合、120年という歳月によって、(人為的とはいえ)城下 が森林化されていく遷移の過程に興味が尽きない。

本丸跡

高取城CG再現プロジェクト
 2007
3月、奈良産業大学によってかつての高取城がCG再現された。このプロジェクトは、「たかとり観光ボランティアガイドの会」が、「高取城をなんとか後世に引き継ぎたいが、現物の修復は予算的に無理」との判断から、CG再現を奈良産業大学に依頼したものである。このCGの動画版も製作されており、冠木門から二ノ門を抜けて天守閣まで至るルートが見事に再現されている。Web上でも配信されているが、現地では街道筋に「夢創館」という高取観光案内所があり、そちらでもDVDを視聴することができる。いずれの方法にしろ、CGで再現された高取城をじっくりと見た後、城に登れば二倍楽しめることだろう。
> 高取城CG再現プロジェクト 


高取城へのハイキングルート
@栢森コース 明日香村栢森−岡口門跡              
        猿石−二ノ門跡    
A土佐街道コース
  (約2時間)
      植村家長屋門− 宗泉寺        
             
壷阪山駅−夢創館−札の辻              
              大手門跡−本丸跡
B壺阪寺コース
  (約2時間)
      信楽寺(お里・沢市の墓) −壺阪寺−五百羅漢−壺阪口門跡    
       
      (※ここまでは自動車で) 壺阪口門跡    
         
C芋ヶ峠コース 芋ヶ峠−吉野口門跡              
             
 


高取城ハイキングコース(土佐街道ルート)

 最もポピュラーのなルートは、壷阪山駅から土佐街道の町並みを通って宗泉寺、猿石、大手門に至るルート。土佐街なみは、旧城下町 雰囲気を残した町家が大手筋沿いに立ち並び、両側には水路が流れている。高取藩主の下屋敷表門が移築された石川医院、なまこ壁が城下町の雰囲気を漂わせている植村家長屋門など見どころも多いが、一直線に伸びた街道の先には高取城がそびえる構図になっている のだ(現在は、高取山山頂付近)。途中、砂防公園が整備されトイレも設置されている。植村氏の菩提寺である宗泉寺との分岐路にさしかか れば、駅から山頂までのほぼ中間点、ここまでが約1時間、そしてここから山頂までが約1時間となる。歩道沿いに小川が右左と交錯するが、ツクバネガシの幼木やヤブツバキが育ってきているのは、廃城 後120年たった照葉樹林帯への遷移の証しだろうか。
 七曲りを登ると、やがて二ノ門手前の猿石が現れ、明日香村栢森からのルートと合流する。ここの猿石は高取城築城の際、石垣に転用するため明日香から運ばれたといわれているが、その難から逃れたお猿さんはにっこりお地蔵さんと化している。一升坂付近 からは屋敷跡や門跡の石垣がさらに多く見られ、司馬氏のいうアンコールワットが見え隠れする。国見櫓跡には是非立ち寄られたい。奈良盆地への眺望が開けて おり、土佐の城下町や大和三山も眼下に見下ろすことができる。また、真正面に見える金剛山・葛城山・二上山は、その昔狼煙台としての役割を担ったのかもしれない。
 大手門手前で芋ヶ峠と合流すると、ここから撮影されたと思われる明治20年頃の天守閣付近の写真が掲示されている。この付近には、ケヤキやスギの巨木が目を引く。先の写真に写っていないことから想像する と、樹齢100120年までというところだろうか。

猿石

 十五間多門跡の石垣を見て、若い頃にこの石垣をよじ登ったことを思い出した。足を引っかけるのにちょうどよい隙間があり、見上げればさほど高くもない。ロック・クライミングのまねごとを試みたものの、真ん中までとりついた あたりから足がふるえだした。引き返すには高く、登り切るにはまだ遠い。後悔も後のまつり、結局登りきるしかなかったような記憶が残っている。 今回、同行していただいたボランティアガイドの方の説明によると、石垣の辺部分は算木積みで反りのない工法。これ以降の城郭の石垣は反りを用いた工法が多いことから、古いタイプの山城の特徴らしい。
 本丸周辺には、植栽されたイロハモミジや自生したモミがけっこう大木に育っている。ここから吉野方面を望む眺望が開け、晩秋 から冬にかけては、雪をかぶった大峰山系が美しいことだろう。天守閣跡付近には、標高583.9mの2等三角点の石碑が設置されてい た。

 高取城ハイキングコース(壺阪寺ルート)
 次に、壺阪寺経由のコースを紹介しよう。 壺坂山駅から土佐街道に出て札の辻までは、先の土佐街道ルートと同じだが、そこから右折してお里・沢市の墓がある信楽寺に出る。盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語である『壺坂霊験記』が、人形浄瑠璃や歌舞伎、講談、浪曲で演じられ、その 夫婦の話は世に大きく広まった。一方、『壺坂霊験記』の舞台となっている壷阪寺は、近年、インドでのハンセン病患者救済活動にも取り組み、その縁で天竺渡来大観音石像、大釈迦如来石像、大涅槃石像が次々と建立されている。 というわけで、これらの寺院をゆっくりと拝観したいところだが、先も急がなければならない。
 壺坂寺から山頂まで約1時間。途中、「五百羅漢」とよばれる無数の石仏や摩崖仏は圧巻である。この石仏群は山腹の自然岩を利用して彫られたもので、室町中期に本多氏が高取城築城に際して石工に刻ませたと伝わる。眼前の石仏にカメラを向けていると、足下に 突き出た岩につまずいてしまいそうである、こうした岩にも石仏の顔。風化して転がり落ちたと思われるが、蹴飛ばさぬよう心して歩かねばならない。 それぞれの石仏の顔はかなり風化してしまって味わい深く、築城にあたっての犠牲者を弔ったものか、それとも城への侵入者を威嚇する効果を期待したものか興味は尽きない。すぐ 近くには、おそらくこちらも
インドにおける国際交流・石彫事業の一環として製作されたであろう新五百羅漢の真新しい石仏 群が安置されていた。

壺坂寺から壺阪口門跡まで登山道が整備されている一方、これと平行して芋ヶ峠までのびる車道が走っている。こちらを利用すれば、車で壺阪口門跡まで簡単にアプローチできる。ここから途中木梯子を上りながら15分ほど歩くと大手門である。1日たっぷりと時間が許せば、往路は土佐街道を登り、復路は壺阪寺経由で下る(その逆も可)というのもいいだろう。

五百羅漢

 
 
   

 
   

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