Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 音羽三山と観音寺

音羽三山

 京奈和自動車道を御所から橿原へ北上すると、左手に葛城山、岩湧山、二上山と続く金剛山地、右手には、少し遠くに鋸の刃を逆立てた屏風のような峰々が連なっている。葛城修験の二十八宿をたずねて和泉山脈から明神山まで踏破したけれど、右手の峰々にはこれまで関心が乏しく、その峰の名さえ指し示すことができなかった。数年前から多武峰周辺を歩き始め、竜在峠を起点に南は芋峠、北は細峠へと尾根を辿ってみると、その先に、大峠、音羽三山が続いていることを知る。
 この音羽三山を登る楽しみの一つに、NHKのEテレで放映された「やまと尼寺精進日記」のお寺観音寺が音羽山の麓にある。また、その境内のお葉付きイチョウは奈良県指定の天然記念物である。毎年、11月下旬に「お葉つき銀杏まつり」が催されており、紅葉も見頃と察し、音羽三山は11月下旬に登ろうと決めた。

 設定したルートは、観音寺駐車場から県道まで下り、寺川沿いに八井内(やいない)をめざす。そして、不動延命の滝から針道に折れ、大峠をめざすことにした。紅葉の観音寺は、最後のご褒美にと、逆時計周りとしたのである。多武峰街道(県道37号線)から観音寺へ折れる交差点には、「右多のみね、左おとわさん」と刻まれた大きな石標があり、千手観音も彫られている。
一方、多武峰街道には、談山神社の一ノ鳥居から摩尼輪塔まで、江戸初期(承応3年)に建てられた町石が残っている。五十二基の町石は、因位(まよい)から仏界(さとり)に至る仏道修行を表しているとされ、1869年(明治2年)の廃仏毀釈以前は、談山神社と共に多武峯妙楽寺が栄えていた由縁である。五十二基の町石すべてが現存しているわけではなく、残っている町石も風化によって文字が読みとれにくくなっている。「三十四町」「三十六町」の町石は、刻まれた文字がはっきりと目視できた。
 八井内の集落入口には、不動延命の滝と破不動尊(われふどうそん)がある。破不動尊は、花崗岩の巨石に不動明王の石仏が刻まれており、その様式から室町時代末期の作ということらしい。この巨石の背後には大きな割れ目があり、案内板によると、慶長13年4月に談山が鳴動した時破裂したものとの伝承があるという。かつての多武峰街道は、破不動尊から八井内集落を通っているが、大峠へは左折し、針道へと進む。途中、正面に視界が開け熊ヶ岳が望める。2003年3月に開通したふるさと農道の大峠トンネルおよび八井内トンネルにより、多武峰と宇陀が車道でつながった。この農道が、頭上を交差しており、時折、車の風を切る音が聞こえてくる。余談だが、2009年12月に開通した県道155号多武峯見瀬線によって、多武峰と明日香間の車道が開通し、明日香から宇陀や吉野方面が随分便利になった。

 大峠は、標高約770m付近で、針道峠ともいう。四辻となっていて、そのまま東へ直進すれば宇陀の宮奥ダム付近に出る。一方、南北には竜門山地の尾根が走っており、南に下ると竜在峠あるいは竜門岳、北へは、これから進む音羽三山(熊ヶ岳、経ヶ塚山、音羽山)が連なる。
この峠には、石地蔵と共に、昭和15年建立の「女坂傳稱地」と彫られた石碑がある。『日本書紀』(九月甲子朔戊辰)によると、「吉野を行幸した神武天皇は、その後、菟田の高倉山に登り、国見丘の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)を発見した。その八十梟帥は、女坂(メサカ)に女軍(メイクサ)、男坂(オサカ)に男軍(オイクサ)を置いて要塞のように立ちはだかったので、天皇は万事休した。」と記されている。石碑は、紀元2600年祭(昭和15年)の一環として、建立されたらしい。ちなみに、男坂は竜門山地の北にある半坂峠とされ、そこには「男坂傳稱地」の石碑が建っている。

 858.8mの三角点、近鉄の無線電話反射板を経て、この日の最高地点熊ヶ岳(904m)に到着。山頂は、ネームプレート以外目立ったものはなく、針葉樹の木立である。ここを通過し、さらに進んでいくと、巨岩の露頭が登山道上に現れる。凝灰岩に見えるが、それとも風化した花崗岩なのか。経ヶ塚(889m)山頂に到着すると、広いスペースがあり、昼食をとるのにちょうどいい。広場の真ん中には、この山の名の由来か梵字の刻まれ六角形の石灯籠が立っている。「アン(普賢菩薩)、バン(大日如来)、ア(日光菩薩)」の梵字をなんとか読み取ってみた。多武峰の鬼門にあたるこの地に経文が埋められたという話もあるが、私自身、調べ切れていない。
 大峠からアップダウンを繰り返しながら、音羽三山最後のピーク音羽山をめざす。経ヶ塚からすぐのところに、本郷又兵衛桜を案内する新しい道標が建てられており、宇陀への近さを感じる。音羽山山頂(三角点851.4m)には、休憩できるちょっとしたスペースがあるものの眺望はない。ここから下山途中、「奈良県景観資産―大阪まで眺望できる音羽山観音寺周辺―」に指定された展望地がある。周辺には山桜などが植栽され、こちらは下界への眺望がよくきく。展望地から間もなく、鬱蒼とした山の中に、パッと灯りをともしたような紅や黄色の紅葉が目に入ってきた。まずは、不動尊を祀った不動堂のお出迎えとなり、どうやら音羽山観音寺に到着したらしい。

 
多武峰街道の三十四町石   破不動尊
 
針道から熊ヶ岳を望む   大峠
 
熊ヶ岳山頂   経ヶ岳山頂
 
音羽山山頂   奈良県景観資産の展望地

 観音寺の寺伝によると、談山妙薬寺(現在の談山神社)の、鬼門除けの寺として丑寅の方角に一宇を建て、鎌足作の梅の木の観音像を祀ったのが始めと伝えられている。現在、本尊は千手千眼十一面観世音菩薩で、古来より眼病平癒の霊験が知られ、「音羽の観音さん」と親しまれてきた。最近では、2016年よりNHKのEテレで放映された「やまと尼寺精進日記」のお寺として有名で、本堂前には住職の等身大パネルも立てられている。
 また、境内には樹齢約600年の大銀杏があり、落葉時には、境内が黄色の絨毯と化している。この大木は、葉と実が一体となった「お葉つきイチョウ」と呼ばれ、奈良県の天然記念物に指定されている。胞子で増えるシダ植物から、種子で増える裸子植物への進化の途上を示す原始的なイチョウである。(以上、同寺公式ホームページより参照))
 寺院から麓の駐車場までコンクリート舗装の坂道が約1km続く。この間、一般車両は通行止めで、お寺近くの数百メートルは軽四でさえ通れず、荷物運搬用のモノレールが設置されている。したがって、このお寺への参拝は、車を降りてから約1kmの坂道を45分余りかけて、自身の足で上り下りすることになる。その昔は、こうした立地の祈祷寺も珍しくはなかったが、廃寺となったところも多い。しかし、今なお参拝客が絶えないのは、住職の徳によるものだろうか。長い参道には、幾つもの石標や石地蔵が参道に設置されている。天保15年(1845年)建立の「音羽山十七夜」の丁石や、安政2年(1855年)建立の立派な石標。後者は、「音羽山観世音、右たふの三祢」と彫られているから、本来、もう少し下ったところで上り客向けに設置されていたのではないだろうか。
 紅葉の美しさに見とれて、観音寺で随分長居をしてしまったが、休憩・昼食等も含め計約5時間の山行であった。

音羽山観音寺
 
観音寺境内   お葉付きイチョウ
 
「音羽山十七夜」の丁石   多武峰街道から観音寺への分岐石標
 
 
   

 
   

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