高野山に通じる街道は7本と言われ(高野七道)、明治5年まで、それぞれの入口に女人結界(高野七口)が設けられた。そのため、各入口には女性のための籠り堂として女人堂が建てられ、女性信者は弘法大師の御廟を四方八方から拝むために、女人堂から女人堂へ高野山の峰々を辿ったといわれる。この周回道が「女人道」であるが、高野七口とそれぞれの女人堂とは場所的に必ずしも一致していないようだ。今も残ってる女人堂は不動坂口女人堂のみとなった。一方、その七道のうち、町石道・黒河道・熊野古道小辺路が、世界文化遺産に登録されている。
その1つである黒河道(くろこみち)は、1594年(文禄3)、豊臣秀吉が高野下山の際利用した道としても知られている。定福寺(橋本市賢堂)を起点として高野山をめざして登るのが、参詣道として向き合い方もしれないが、今回は、秀吉を追いかけるように黒河道女人堂跡から下ることにした。
黒河道女人堂は現存していないが、観光マップには黒河道女人堂跡なるものが記されており、そこをめざすものの、見つけにくい木札が建てられているのみであった。高野山森林公園をぬけ、転軸山(915m)を経由して女人道に沿う。
転軸山の東側に弘法大師廟を見下ろせるはずだが、森林で視界は開けていない。やがて、高さ822mという一本杉に出くわすが、この辺りから古道らしい雰囲気が漂う。女人道と交差する小川に癒やされていると、子継峠(粉撞峠)に到達する。「香春峠(こつぎとうげ)永正壬申九年(1512年)八月廿二日
検校重任」と銘のある地蔵が、500年以上にわたってこの峠を見守っており、祠におさめられている。
茶堂跡を通過し、旧久保小学校に出る。この集落は、大正の頃に含銅硫化鉄鉱床で知られる久保鉱山で栄えたようで、1876年(明治9)創立、2006年(平成18)には休校となった。手入れの行き届いた木造校舎は、現在、「くどやま森の童話館」として蘇っており、運動場脇にはヤマザクラの巨木が2本、満開ともなるとそれは見事な花模様が容易に想像できる。また、プール脇のイロハモミジの木は、梅雨が近づくとモリアオガエルの産卵場所となるようで、ヤマザクラとモリアオガエルの季節にそれぞれ再訪してみたいと強く思った。 |