実は、龍門山から続く稜線上に、どうしても確かめたい造形物がある。京奈和自動車道の紀の川I.C.付近を走っていると、夕日に照らされた真っ白な天守閣のようなものが見えるのだ。こんな尾根上に、白亜の天守閣をもつ山城は、史実に出てこないはずだ。和歌山県には、泊まれるお城「国民宿舎湯浅城」のような例もあるし、何かしらの観光施設かなと想像してみるが、百聞は一見に如かず。麻生津大橋から麻生津峠まで車で上り、あとは尾根上に歩いてみるかと、地図上で見当をつける。別頁にも紹介しているが、麻生津中から峠まで、高野山までの参詣道である麻生津道が延びており、とても風情のある旧街道だが、ここでは麻生津峠からの案内とする。
峠には、「峠の観音茶屋」と標された比較的新しいお堂が建っており、かつて、ここに峠の茶屋があったことを想像してみるものの、現在の新しいお堂には十一面観音が祀られ、「十一面観音茶湯所」と標識を建てている。麻生津道は、この峠を越え市峠をめざす。峠の茶屋には駐車スペースもあり、ここに車を置いて、麻生津峠の交差点を右折し、舗装された急登を上る。かなりの斜度があるが、4WDの軽トラならなんなく上っていくのだろうか。麓から見上げた飯盛山まで稜線は美しく、その尾根上に先の車道は続いている。
あとで気付いたが、この急登を車でチャレンジするのに不安がある場合は、麻生津峠を南に越えたところから、別の車道が延びており、尾根まで上がれば、林道を使って車止めまで進むことができる。
話は戻り、峠からの急登を上りきると、バンガローのような朽ちた小屋が目に入った。そして、次に目にしたものは、廃墟となった巨大な宿泊施設であ
る。「ホテル飯盛山荘」というプレートや「薬草かまぶろ温泉」という看板が残っており、昭和の時代にタイムスリップしたような空気が漂う。
近くにこれといった観光名所はないものの、北に開けた眺望は絶景で、標高650mの避暑地だったのだろうか。あまり長居はせず、車道を進んでいく
と、間もなく白い天守閣が姿を現した。案内板には、「飯盛城」という名の神路原(こうろばら)神社関連施設とあり、非公開であ
る。外観しか望めなかったが、これぞ京奈和自動車道から目にした白亜の建造物である。飯盛山城については後述するが、史実に基づいた復元城ではないようだ。
この先も林道は続いており、やがて車止めがあって、ここから先は、道の両側から延びた草木が時には行く手を阻んでいる。歩いたのは9月のお彼岸の頃で、ヒヨドリバナのお花畑にもしやと期待すると、アサギマダラが姿を現した。しかも、1頭や2頭ではない。気温21℃前後を好んで移動するアサギマダラにとって、9月下旬は標高650m〜700m付近が蜜の補給場所らしい。この林道は、飯盛山山頂を迂回して西進するが、山頂の西側も荒れている。
実は、飯盛山山頂に、『太平記』にも記された飯盛城の城郭跡がある。
「元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。」(『太平記』巻十二安鎮国家法事付諸大将恩賞事)
大意は、北条高時率いる鎌倉幕府と、倒幕を企てる後醍醐天皇側との戦いが佳境を迎える1333年春、筑紫でも平氏一族(幕府側)の挙兵があったが、河内の国の賊徒(反天皇勢力)も佐々目憲法僧正を取り立てて、飯盛山に城を築き(天皇側と)戦った、ということである。
四條畷市と大東市の市境にも飯盛山城という名の城があるが、『太平記』の記述は、紀伊の飯盛山城とするのが一般的で、ここ攻めるのに河内の悪党楠木正成も参戦したとする話が見え隠れする。中世初期の山城ゆえか、石垣はなく、山の地形を利用した土塁や横堀などの遺構が今も確認できる。ただ、1581年(天正9)の織田信長による高野山攻めの時に、高野山衆徒が飯盛山城に籠もったとも伝わり、その時の遺構かもしれない。現在、山頂は整備されておらず、草木をかき分けようやく三角点を見いだすことができた。
この先、尾根伝いに西進すれば田代峠を経て龍門山に至る。龍門山は、粉河から登るルートが整備されているので、キイノシモツケが開花する頃には
、そちらの登山道に人影も多いが、飯盛山山頂を迂回する林道も、先ほど同様、荒れていて藪漕ぎを強いられる。
尾根伝いのトレッキングを楽しみたいところだが、行政による整備が望まれる。 |