五條市からの金剛登山といえば、最近ではもっぱら「天ヶ滝新道」が使われている。このルートは、林業のために拓かれた道であり、戦後、登山道としても整備された。しかし、この「天ヶ滝新道」に並行して、「石寺道(小和道)」が東側に延びている。
7世紀頃、役小角は葛木山や大峰山系で修行を行い呪術を取得したという。ここでいう「葛木山」とは、現在の葛城山にくわえ金剛山をもさす。こうした歴史から、金剛山は山岳宗教の聖地として長く信仰の対象とされてきた。山頂にある転法輪寺(てんぽうりんじ)は葛城修験道の根本道場で、真言宗醍醐派に属する葛城修験道大本山である。明治期の廃仏毀釈によって一度廃寺となっ
たが、それまでは、修験者に導かれ信仰のために登る霊山であった。役行者が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚が、紀淡海峡・友ヶ島から大和川・亀ヶ瀬に至る金剛紀泉山脈の各所に在り、「葛城二十八宿経塚」
を巡礼する葛城修験が隆盛していた頃である。
その参詣道の1つとして栄えたのが「小和道」である。江戸時代の名残として鳳凰寺(小和町)を起点とする町石(一町ごとに置かれた石標)が、今も道沿いに八基ほど残っている。また、道中には、石寺跡があり、高さ二メートル余りの巨石が残っている。『大和名所図絵』(一七九一年刊)によると、「この寺も金剛山七坊の内なり。本尊は石佛の薬師如来。これは役行者百済国より負ひ来たり給ふと云ひ伝ふ。このゆゑに石寺と号す。境内は方十町余あるよし。行者堂・葛城明神・金剛童子堂・辨財天社・鎮守三十八所社あり。」といった解説があり、大きな伽藍であったことがわかる。明治初めの廃仏毀釈により堂塔伽藍は失われている
が、付近には同寺縁の僧侶と思われる墓石などが残っている。この石寺跡は
、「葛城二十八宿経塚」のうち第二十番経塚となっている。
この石寺跡に至る手前の人工林の中には、「高宮廃寺跡」へ向かう分岐路がある。この寺院跡は国の史跡にも指定されており、奈良時代中期の瓦が出土し、金堂や塔の礎石も残っている。出土遺構と同規模として、当麻寺金堂や百済寺三重塔をイメージするとよいが、こんな山中に驚くばかりの伽藍である。ただ、渡来系小豪族高宮氏の氏寺跡とする確かな根拠はなく、南葛城郡誌においては「水野寺」と記されている。
伏見道が近くなる頃、道中には「欽明水」と命名された湧水があり、かっつての旅人の喉も潤したことだろう。このように先人たちの信仰と足跡が感じられるのが「小和道」である。 |