Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
  神も仏も大津皇子も、二上雄岳に鎮座

新池

【葛木倭文座天羽雷命神社〜雄岳〜上ノ池横登山口】
 近鉄南大阪線には、「二上神社口駅」と「二上山駅」があり、どちらが二上登山の玄関口なんだろうと、ふと考えてみる。二上神社口駅からは、葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)を登山口として雄岳に通じる。また、二上山駅からは、上ノ池横登山口を起点に雄岳をめざす。雄岳山頂には、葛城坐二上神社が鎮座しており、祭神は豊布都霊神(とよふつのみたまのかみ)と大国魂神(おおくにたまのかみ)の式内社である。香芝市在住の友人に尋ねると、前者のルートの方が住民には親しまれていると聞いた。
 前者の登山口である葛木倭文座天羽雷命神社の祭神は天羽雷命(あめのはいかずちのみこと)で、相殿神として加守神社と二上神社がある。雄岳山頂の二上神社に対して遙拝所的な性格があるのかもしれない。このルート上には丁石が数体残っており、 雄額山頂に近いところのものは「十 七丁」、その下の丁石は「十三丁」と読み取れた。葛木倭文座天羽雷命神社から13丁(約1.4km)の距離と一致するように思うのだがどうだろう。こうした丁石が残っているだけで、先人たちが歩いた参拝道の証としてうれしくなる。
 雄岳山頂には、葛城坐二上神社以外に、大津皇子二上山墓、そして葛城修験第26経塚などが祀られている。現在の二上神社社殿は、1974年(昭和49)の二上山大火で焼失し、翌1975年に再建されたものである。かつては、雌岳に深蛇大王(嶽の権現)が祀られ、水神として庶民信仰と結びつき、「嶽のぼり」の祭神だったそうである。近年、「嶽の権現」は雄岳に遷ったのか、こちらの二上神社が二上山の水流を利用する「嶽の郷」の氏神的存在である。毎年、旧暦3月23日には、二上山麓周辺地域の人々が「嶽のぼり」と称して二上山へ登り、五穀豊穣を願って雨が降る事をお祈りし山頂でごちそうを食べて新緑を楽しむ行事だったそうだ。しかし、現在は、4月23日に行われる二上山美化促進協議会(葛城市・香芝市、太子町)主催の美化促進運動と重ね、清掃登山にとってかわられたようだ。
 一方、雌岳の方は、二上山登山の展望地及び休憩所として整備され、大理石の大きな日時計が存在感を示しており、登頂の感激を待ち受けてくれそうなものはない。いや、三角点は、雄岳になく雌岳の方にあった。

 帰路は、上ノ池横登山口を目指すが、途中までは葛木倭文座天羽雷命神社からのルートと重なる。
その分岐路までの間に、「たまねぎ状風化」と呼ばれる安山岩が観察できる。「たまねぎ状風化」とは、昼の直射日光で温まって膨張し、夜冷えて収縮することが繰り返され、表面から同心円状の割れ目ができ、皮がむけるように割れていく風化をいう。また、分岐路を過ぎてから上ノ池横登山口までの間に、城の城壁のような「雄岳火山岩の露頭」が見られる。こちらも安山岩だが、サヌカイトかと思われる。
 いよいよ上ノ池が近づいてきたかと思われる頃、登山道の右手にトルコブルーの水を蓄えた池が現れた。池の方に下りていくと、ニレ科の樹木の大木がシルエットとなって迎えてくれた。ちょうど梅雨期で、注ぎ込む小川が増水していたが、美しい水の色はそのせいだろうか。ここ新池(アタラシイケ)は、この日一番のお土産であった。

 
葛木倭文座天羽雷命神社   十七丁石
 
葛城坐二上神社(雄岳)   大津皇子二上山墓(雄岳)
 
葛城修験第26経塚(雄岳)   日時計(雌岳)
 
三角点(雌岳)   雌岳山頂から雄岳を望む
 
たまねぎ状風化   雄岳火山岩の露頭

 

 

【大津皇子と『万葉集』】
 686年(朱鳥1)、天武天皇の第3子大津皇子は、謀反の罪で自害させられた。斎王を務めていた姉である大来皇女は、『万葉集』に以下の歌を詠んでいる。

大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り來ましし時の大伯皇女の御作歌二首
わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし 
(巻2-105)
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が獨り越ゆらむ 
(巻2-106)

大津皇子薨りましし後、大來皇女伊勢の齋宮より京に上る時の御作歌二首
神風の伊勢の國にもあらましをなにしか來けむ君もあらなくに 
(巻2-163)
見まく欲りわがする君もあらなくになにしか來けむ馬疲るるに 
(巻2-164)

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む 
(巻2-165)
礒のうへに生ふる馬酔木あを手折らめど見すべき君がありと言はなくに 
(巻2-166)
右一首、今案ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮より京に還る時、路のへに花を見て感傷哀咽てこの歌を作るか。

 巻2−165の歌を根拠に、近世に入ってから宮内庁が雄岳山頂を大津皇子の陵墓とした。これには異論を唱えているものが大勢である。二上山の落陽と浄土思想が源信によって結びつけられ、日が沈む二上山の向こうに極楽浄土を想像するようになるのは平安時代中期以降だが、万葉の時代にも、すでに人の往生と二上山の夕陽を重ねていたのかもしれない。

 
 
 
   

 
   

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