国道旧309号線水越峠付近には、シーズン中の休日ともなると車の縦列駐車が続く。ここからは北へ葛城山、南へ金剛山と登山道が伸びているため、両登山客の賑わいなのだが、この両ルートはダイヤモンドトレール(以後、略称“ダイトレ”)上にある。ダイトレは、屯鶴峯・二上山から岩湧山・槇尾山とつながる全長約50kmの縦走路で、1970年大阪府によって整備された。今回は、金剛山側へのルートをとるが、ここから数キロは林道ガンドガコバ線が延びており、しばらくは水越川渓谷に沿ってのんびりとしたハイキングが楽しめる。
【水越川の水論争】
ところが、このルートを利用する登山客のいったいどれだけの人が、かの歴史を知っているのだろうか。ここでは、とても血なまぐさい戦いの跡が、登山道脇に見え隠れしている。その歴史とは、農業用水をめぐる大和側と河内側の戦いである。この登山道沿いを流れる水越川は、自然な流路をたどると青崩地区を通って大阪平野に流れる。大和川水系の1つである。しかし、大和王権の誕生以降、奈良盆地周辺の農地化は急速に進み、水越峠の大和側に当たる葛城の地域でも、金剛山を水源とする水利をいち早く手に入れ、水田化が進んだと思われる。具体的には、水越川の水路を人工的に変え、大和側の関屋方面へ落とした。この水は、現在でも吐田郷(関屋・増・名柄・豊田・宮戸・森脇・多田・寺田の八ヶ村)を潤し、その実りは吐田米としてブランド化している。
一方、河内側の農耕開発が水越峠山麓まで達し水越川の水利に活路を求めたのは、大和側より遅れ、中世の終わりから近世にかけてという説もある。自然の流路を変えたとはいえ先祖代々の既得権を譲れない大和側と自然流路の正当性を主張する新参者の河内側との争いが、元禄期(江戸時代)に入って一層激化したのである。そこには、徳川政権による年貢徴収の厳しさも影を落としているのだろう。
最も緊迫したのは元禄14年(1701年)5月6日、苗の植え付けを控えて水不足は深刻であった河内側は、水越の両水を切り落とした。7日には、大和側が水を取り戻したが、この時はそれで収まらなかった。8日未明には、河内方が手に手に鍬・鋤・鎌を携え、各々髪に白紙を結わえ決死の覚悟で参集する。その数1020人。大和側は流血の惨事を避けあくまで法廷解決に持ち込もうと、9日には吐田水郷六ヶ村庄屋連名にて口上書を提出、戦いの舞台は京都所司代に移された。元禄14年と言えば、その3ヶ月前の2月、江戸城内松の廊下で赤穂藩主浅野長矩が高家吉良義央を切りつけた事件が起こった年である。時の将軍は犬公方で名高い徳川綱吉。
両方の裏工作は様々伝えられているが、結局、その年の12月21日、京都所司代より判決は言い渡された。大和側の全面勝訴である。なお、河内側は、敗訴が漏れていたのかこの判決日には出廷しなかったらしい。こうして水越川の水路は関屋側に確保され、その裁定はなんと現在まで引き継がれている。ちなみに、水越峠の大阪府側石筆橋付近に「重石境(かさねいしさかい)」と刻まれた石碑がある。大和側が、河内側との国境の根拠にした石で「鎌取石」という別名もあるそうだが、国境の裁定は回避されたようだ。
林道ガンドガコバ線が大阪府と奈良県の県境にさしかかるあたり、それまで山腹に阻まれていた左手の視界が突然御所方面に開けている(越口)。ここから水越川の水を奈良県側の谷に落としているのだが、さらに左手を注意深く見ていくとコンクリートで作られた水路になみなみと水が流れている。その水路はやがて林道と交差し、右手を流れていた水越川からの取水口へとたどりつく。川の流路をせき止めているのは河原の大きな石で、そこから何割かは漏れ流れている。
一方、水越峠から葛城山を登る登山道に沿って水路が施され、豊かな水流が見られる。辿っていくと小さな滝があり、ここは「万治が滝(馬路ヶ滝)
」と呼ばれている。この滝に流れ落ちる水も、地形的には大阪側に流れていたかもしれないが、先ほどの水路に導かれ大和側に流れ出ている。こちらも、水越川の水論争の裁定によるものだと伺った。
【参考文献】 御所市史編纂委員会『御所市史』(S40.3.10.御所市役所) |