Mountain Guide
                         くりんとの登山ガイド

           
   
 アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ登頂 -1989年- 
'89 行 程
8/5 パキスタン航空にてマニラ、バンコクを経由して、カラチへ。(機中泊)
8/6 カラチで乗り換え後、アブダビ経由でナイロビへ。(ナイロビ泊)
8/7 車でナマンガ国境を越え、タンザニアのマラングへ。(キボ・ホテル泊)
8/8 入山手続きを終えたあと、登山開始。樹林帯の中、約4時間半でマランダ・ハットへ。(マランダ・ハット泊)
8/9 樹林帯を抜けて、約6時間でホロンボ・ハットへ。
(ホロンボ・ハット泊)
8/10 植生限界を越え、約6時間でキボ・ハットへ。(キボ・ハット泊)
8/11 夜中、火山灰のジグザグの道を約6時間でギルマンズ・ポイントへ。
登頂後、ホロンボ・ハットまで一気に下る。(ホロンボ・ハット泊)
8/12 マンダラ・ハットで昼食をとったあと、約5時間半でマラング・ゲートまで下山。その後、車でアルーシャへ。(アルーシャ泊)
8/13 車でナマンガ国境を経て、ナイロビ空港へ。そして、空路カラチへ。
(カラチ泊)
8/14 カラチ市内観光の後、空路東京へ。(機中泊)
8/15 成田空港到着。

@<8/8>キボ・ホテルを発つ  Aマラング・ゲートより入山  B現地ポーターが食料・荷物等を運ぶ

Cマランダ・ハットに到着  D1日目の宿泊小屋  E <8/9>登山道

Fホロンボ・ハットに到着  G2日目の宿泊小屋  H夕食のひと時は、イギリス・スタイル

I<8/10>山頂が見えてくる  Jこのあたりから高山病の症状  K3日目の宿泊地キボ・ハット

L<8/11>アタック途上で御来光  Mギルマンズ・ポイント登頂 (5685m)  N山頂よりキボハット付近を見下ろす

●ナイロビからアリューシャへ
 大陸もこれで3つ目(アメリカ、中国)になるが、今度こそ「大陸」というものを実感できたように思う。時速120km前後で、車は大草原の中を突っ走ってくれるが、全くあきない。私の故郷の町が、丸ごと入ろうかと思われる平原が、ず〜っと360度展開する。そもそも私有財産制度っていうのは、平地の少ない、土地のない国に育つ制度で、この大陸には、自分の場所を塀で囲もうという考えはおこらないのだろう。とにかく平原が続くんだから。それよりも、人間が、いかにこの大自然とつきあうか、自然のサイクルの1つとして共存するか、そこに大きな問題があると思う。「風景」とか「景色」とかいう言葉はここに当てはまらない。「大陸」が、「自然」がそこにある。
 町を離れると、マサイ族の営みがみられた。小学校中学年ぐらいの子どもが、何十頭もの牛の世話(放牧)を棒切れ1つで、一人でやっている。どうやら、この民族にとって、子どもは大切な労働力である。ただ広いだけの平原を、 1つの方向に向かって牛を追っている。俺たちの車が通ると、チラッと目をやり、時に手を振ってくる。俺も手を振り返す。そして、再び牛を追う。「しっかりやれよ」と、応援したくなる。何か、今の日本人が失いつつあるものがそこに見えた。やがて、彼らの生活にも農耕文化が進入し、先進国の文化が入り、それを追うことになるのだろう。確かに生活の安定が保障されるだろうが。

●登山開始

 当たり前だがここは外国。俺たちのパーティー以外に、たくさんの国から登山にやってきている。アメリカ人親子、オランダ人、ドイツ人、イタリア人など国際色豊か。日本の登山では味わえない面白さがある。「JAMBO!」と互いに声を掛け合う。ここでは、 国際共通語だ。オランダ人との“長崎出島”論議は面白かった。
 最初の登山小屋マランダハットに到着。食事、ベッド、小屋、トイレなどなど、予想外の戸惑いがあるが、これがここの登山だと言い聞かせる。経験豊かなメンバーに、いろいろ教えられることが多い。シュラフカバー、ヘッドライトは必携。スパッツにニッカズボン、ラガーシャツは快適。外国旅行には、煮干、ベビーラーメン、味噌汁など日本の味が恋しい。飴やレモン、梅干などもいいと思った。

●登山2日目

 高山病の心配な高度になってきた。標高3000m過ぎでスピードが速すぎたのか、頭がボーっとしてくる。また、妙に眠たくなる。その場で寝てしまいたいような。そして、手の指先に痺れが。まさに高山病初期症状。でも、それからスピードを落とし、ゆっくりゆっくりと歩いていくと、そういった症状も軽減されてきた。 この夜の星空は、宝石箱を広げたような満天の星空。
 イギリスの植民地の歴史があったためか、彼らが持ちこんだ登山のスタイルや山小屋での料理はイギリス式。10人前後のパーティーに、20人ぐらいのガイド及びポーター(荷物運搬兼調理人)が就く。生きた鶏もしょっていく。山小屋に着くと、先に到着したポーターが熱い紅茶とビスケットで迎えてくれる。ディナーの時には、テーブルクロスが整えられる。その長であるガイドは、ポーターの雇い入れを含め一切の権限を持っており、以前は軍人としてキューバに赴いたことがあると話してた。

●登山3〜4日目

 キボハットに到着後、本格的な高山病が襲う。頭痛は大したことないのだが、吐き気がひどく、夕食は食べられない。 早めにシュラフにもぐりこみ、体調を整えようとしたが、数時間後に思いっきり吐く。その夜、深夜12時起床。体調は最悪。山頂まで5時間の予定だが、「とりあえず行こう。だめだったらひきかえそう」と思って発った。
 午前 1時出発。 途上、何度も「引き返したい」とガイドに申し出ようと思ったが、これもなかなか勇気のいることで、ここでやめたら日本に帰ってみんなに合わす顔がないと、それだけが支えで踏ん張った。 一筋の光もない登山道は、懐中電灯だけが頼り。空気がうすいため、ちょっと動いただけで息切れがする。そこへ睡魔が襲い、再三足を止める。ポーターが“Wake Up !”とどなる。
 登頂に成功した時は、うれしさと言うより「2度と登りたくない」「修行が終わった」と いうのが本音。キボハットまで下ると、ポーターがオレンジジュースを用意し差し出してくれたが、飲むや否やまた吐く。


●5日目下山

 やっと下山。キリマンジャロを背に悔いなし。それにしてもお腹の調子が悪い。もともと胃が丈夫でないだけに、高山病が尾を引く。こうした長期登山を行うと、自分の精神面、肉体面の強さ、弱さが浮き彫りになる。自分がよく見えてくる。人間、健康が何より。例え1週間、風呂に入らなくったって、下着を換えなくったって、「快食、快眠、快便」この3つをしっかりくずさぬ様にすれば、人間どんな場所でも生きられる と悟る。

◇後 記
 数年前に、俳優の反町隆史がキリマンジャロに登頂するドキュメンタリー番組が民放で放送されていた。私と同じルートで、懐かしく拝見したが、やはり彼といえども、その苦闘やその後の涙も映し出されていた。私にも、彼に負けないくらいのドラマがあったのだが、反町だとドラマになるんだなあ。というわけで、16年以上も前の武勇伝を記しておこうと思い立った。(2006.3.12.)

 
 
 
   

 
   

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