1985年11月、元日本山岳会会長の今西錦司氏が1500座目の山として白鬚岳に登られたというニュースを、当時、私は新聞記事で目にした。今西氏は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家、日本の霊長類研究の創始者などたくさんの肩書きがあり、氏の著述を高校の教科書か何かで読んでその名前を知っていたように思う。1500座目として白鬚岳を選んだ理由は、「その姿が秀麗だったので、前から1500座目はこの山にしようとあたためていた」という記事だったように覚えている。そんな高名な登山家が、1500座目として川上村の白鬚岳を選んだのならと、20代だった私は、あまり時間をおかずこの山にチャレンジした。しかし、途中道に迷い残念してしまったのだが、どこでどうさまよったのか、リベンジすることもなく35年も経ってしまった。
2020年8月、伯母ヶ峯からさらに三角点に向かって尾根道を歩いていると、木々の隙間から北の方向に、白鬚岳を抱く尾根が姿を現した。その尾根は、火口のように大きな円を描いており、白鬚岳を頭とするとその両腕で輪っかを作っているようにも見える。ちなみに、左腕上には小白鬚、右腕の先っぽにはショウジ山の頂がある。あとで調べると、この円形の尾根上に登山道があり、7〜8時間で一周できるということを知った。そして、35年ぶりの白鬚岳リベンジに火がついた。
今西氏が、記念の1500座目に登った時のルートは、中奥から伸びる林道を使っており、白鬚岳の北側斜面になる。一方、「白鬚岳の空中回廊」ともいうべき周回ルートは、神之谷の支流である東谷の出合から入る。こちらの登山口には、登山届け用のポストも設置されており、スタンダードなルートであることに安心するものの、駐車場所があまりないため、さらに数百メートル上流に車を運び3台ほど並べられる路肩を見つける。この間、下山時に予定している登山口が右手に下りてきていることを確認できた。
小白鬚の尾根に出るまでは、急登が多く息が切れる。途中、株立ちになったカツラの大木や滝、水場など、変化があって面白い。白鬚岳に対して小白鬚という名前が付けられているが、ショウジ山付近から見る角度によっては、小白鬚の方が堂々たる山容でもある。小白鬚〜白鬚間は、やせ尾根が続きアップダウンも多いため、注意が必要である。この峰を登り切れば白鬚かと、何度思い違いをしたことだろう。それでも力を与えてくれるのは、こちらの尾根から南の方角に、時折、伯母ヶ峰が姿を現したり、その手前に、これから周回する空中回廊の尖った尾根が弧を描いている風景だ。尾根が尖って鋭く見えるのは、人工林が続くためだとあとで分かる。
東谷出合から約3時間20分で、白鬚岳に到着。三角点より先に、今西錦司氏が1500座目に登頂したことを記した大理石の記念碑が先に目に入る。そこには「一山一峰に偏せず、一党一派に偏せず」という氏自筆の文字が彫られていた。たくさんの功績や足跡を残し、たくさんのお弟子さんが育っている人だからこそ、この信念に説得力と格好よさがあるけれど、私のような凡人はあこがれるだけの人生訓としておこう。(笑)
ここから後半の周回コースは、登山地図にそのルートが掲載されておらず、尾根筋を見極め、常に地図上で現在地を確認しながらの歩行となる。このようなときには、スマホの登山用アプリが最強のガイドとなる。地形図上にGPSで足跡をなぞってくれるため、今回もずいぶん助けられた。後半の尾根は、しばらく落葉広葉樹に包まれているものの、1131mの三角点を過ぎてから、見慣れない形状の松ぼっくりを登山道上に見つける。辺りを見渡すと、左手(南側)がトガサワラ林であることに気づく。同じ川上村内に国指定の天然記念物「三之公川トガサワラ原始林」があるが、地図上で確認すると、ここから目と鼻の先に位置していることがわかる。
尾根上の林は、やがて人工林に代わっていく。吉野川流域で育つ杉を「吉野杉」と呼びブランドとなっているが、今まさに「吉野杉」の森を歩いている。国産材の需要は伸び悩み林業は停滞していると聞くが、ここ川上村では、この日も伐採した木材を搬出しているヘリコプターの音がけたたましく聞こえ、また目の前の手入れの行き届いた人工林に川上林業健在と想像する。したがって、人工林の森に突入してからは踏み跡やテープの印もはっきりしており歩きやすい。ここまでずっと迷わずに尾根を辿ってきたが、標高777mの水準点を通過したあたりから五感を研ぎ澄まして下りルートの見当を付ける必要がある。ネット上の山情報でも、ここから道を見失ったという報告がたくさん出ており、私も標高650mあたりで踏み跡を見失い右往左往する。やがて、小さな尾根筋を一直線に下降する山道を見つけ、駐車付近で見つけた登山口に出ることができる。白鬚岳から約3時間20分であった。
計7時間近く歩いた「白鬚岳の空中回廊」だが、下界ではシルバーウィークの喧噪がとても眩しく映った。 |