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やまとの花手帖

 
         
         

日本一の秀吉と吉野山のヤマザクラ 

バラ科サクラ属

吉野山(2011.4.17.)

 吉野山のサクラは、シロヤマザクラという山桜。ソメイヨシノはクローン桜だから、一斉に咲いて一斉に散るが、ヤマザクラは1本1本遺伝子が異なり、それぞれ花の色や開花時期が異なる。公園の春を彩る華やかなソメイヨシノの場合、1〜2週間ほどで見頃が終わってしまうのに対して、1本1本個性をもったヤマザクラの場合は、何週間にもわたって楽しむことができる。吉野山の場合、標高があがるにつれて下千本、中千本、上千本、奥千本と呼び名を変え、桜前線も上昇していく様が有名だ。
 さて、吉野山がなぜ桜の名所となったのか。ここは宗教や信仰と密接にかかわっている。今から約1300年前、修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、難行苦行の果てに蔵王権現を感得した。その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして、桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされる。これ以降、桜の木は吉野山において御神木とされ、献木という行為によって植え続けられてきた。したがって、一山がピンク色に染まる様は、厳密にいえば人間の手によって植樹され、手入れと保護によって維持されてきた結果と言える。ただし、ソメイヨシノではなく、宗教的な行為によって守られてきたヤマザクラだ。
 吉野山の花見と言えば、秀吉が絶頂の勢力を誇った1594年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れたのが有名である。その様は、『豊太閤吉野花見図屏風』(細見美術館所蔵)にうかがい知ることができる。この年の吉野は長雨に祟られ、3日間降り続いた雨に苛立った秀吉は、「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と同行していた僧たちを脅したという。祈祷が功を奏したのか、前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、吉野山の桜は難を逃れたという話が残る。
 秀吉の花見の本陣は、義経や後醍醐天皇にゆかりの深い吉水神社においたとされるが、 ここから中・上千本を見上げた様は、今も「一目千本」と称されている。花見シーズンともなると、奈良県民は吉野山行きの国道169号線の大渋滞を知っているだけに、おいそれと近寄りはしない。したがって、意外にも灯台もと暗し、吉野山の桜を知らないのだ。その一人が実は私だったが、今年 ついに、家族3人の共ぞろえで、青空の下、大花見会を決行した。
【引用文献】吉野町Webページ

 3〜5月
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