大阪湾防衛の目的で紀淡海峡周辺に作られたのが由良要塞で、友ヶ島、深山、由良の3つの地区に分かれる。(1903年5月、鳴門要塞が編入され鳴門地区が加わる。)東京湾要塞・下関要塞と並び一等要塞として、1889年(明治22)から建設が始められたそうだが、中世から江戸初期にかけて由良城が築かれ、幕末には徳島藩の台場が築かれ経緯がある。
由良では、生石山砲台・高崎砲台・成山砲台の3ヶ所が築かれ、他に堡塁(生石山堡塁、伊張山堡塁、赤松山堡塁)や兵舎、弾薬庫、そして司令部施設などが整えられた。
紀淡海峡対岸の友ヶ島はよく見え、真っ白な灯台ははっきりと目視できる。灯台付近には、第1砲台と第2砲台が海岸近くに配置され、共に27cmカノン砲が4門ずつ設置されていた。榴弾砲はカノン砲に比べて、短砲身のため短射程で高仰角の射撃を特徴とする。砲全体の重量は軽く、装薬量の少ない砲弾を多用するため生産コストが低く火薬も省エネであった。一方、カノン砲は、砲身長(口径長)が長く、高初速・長射程で、低仰角の射撃で使われる。現在は、榴弾砲とカノン砲の区別は無くなっているようだ。
このような大砲を配備した由良要塞も、結果的に、火を噴くこともなく、また、アメリカ軍の空襲にさらされることもなかった。航空機が主力の太平洋戦争において、侵入する軍艦を狙った榴弾砲などは無用の長物、結局、無視されたということになる。ただ、アメリカ軍もこうした日本の軍事施設をきちっと把握しており、終戦後、すぐに接収・解体が始まった。
現在、生石砲台は、第1砲台から第5砲台まで見学できる遊歩道と2ヶ所の駐車場が整備されている。しかし、風化や土砂の流入などが著しく、いずれの弾薬庫には近寄れない。第4砲台と第5砲台のみ、円形の砲台跡に立つことができるが、天空の城ラピュタの世界観を彷彿とさせる和歌山市の友ヶ島や深山の砲台跡を見学した後では、見所が少ない。ただ、第2駐車場には、記念碑のように置かれた27cmカノン砲の砲身が横たわっており、必見の価値がある。
【参照】兵庫県埋蔵文化財情報「ひょうごの遺跡」65号(兵庫県立考古博物館)H19.9.30.発行 |