Field Guide くりんとのフィールドノート
第3砲台跡(弾薬支庫)
【由良要塞】 「友ヶ島」は、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称である。第2次世界大戦が終わるまでは、軍事施設「由良要塞」として、一般人の立入は禁止されていた。戦後、南海電鉄によって観光開発が行われ、南汽観光の加太港−沖ノ島間航路も開設された。タイワンジカやタイワンリス、クジャクまで放たれ、夏場はキャンプなどで賑わった。2000年を過ぎると、観光客数が最盛期の1/5まで減少し、南海電鉄は2002年3月に完全撤退する。航路は(有)友ヶ島汽船に引き継がれたものの、その後、加太漁業協同組合が「(株)友ヶ島汽船」を設立して運行している。 すっかり観光客の遠のいた友ヶ島だが、近年、ジブリ映画『天空の城ラピュタ』を体感できるスポットとして若者の人気を集めつつある。というのも、戦前の軍事施設である砲台跡や煉瓦造りの地下弾薬施設が良好な状態で残っており、なかなかの見応えがある。この島に自生する常緑樹が煉瓦の建造物を徐々に飲み込もうと言わんばかりに繁茂している様が、ラピュタっぽいのかもしれない。これら『友ヶ島砲台群』は、2003年、土木学会選奨土木遺産に選ばれている。 一方、対岸の加太地区にも、同様の軍事施設が点在している。紀淡海峡に臨む深山、加太、友ヶ島、由良(淡路島)、鳴門海峡に臨む福良(淡路島)の軍事施設を総称して、「由良要塞」と呼んでいる。 【由良要塞重砲兵連隊】 古くは、日清戦争中の明治27年12月に「要塞砲兵第二連隊」として由良に開設され、明治29年5月に「由良要塞砲兵連隊」と改称、明治30年7月には、その第三大隊として深山に兵舎や砲台が設置された。その後、組織の再編などがあり、太平洋戦争開戦前後の昭和16年になると、「由良要塞重砲兵連隊」に改編され、連隊本部は由良に移転する。昭和17年12月には、組織の再編成があり、「中部第七十五部隊」と称した。 一方、海面の防衛及び警備は、昭和16年11月に「大阪警備府」が新設され、和歌山、大阪、兵庫、徳島、高知県の海上を担当警備区域としている。 (参考文献:『太平洋戦争と和歌山県』川合功一・著)
【二十八糎榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)】 大阪砲兵工廠がイタリア式28cm榴弾砲を参考に試作したもので、1884年(明治17年)に第1号が完成。1904年に始まった日露戦争では、二〇三高地の戦いを含む旅順攻囲戦で18門が投入され、旅順港内に停泊するロシア艦隊にも大打撃を与えて貢献した。二十八糎榴弾砲が野戦に投入されたのは、日中戦争の1939年(昭和14年)11月3日に行われた潼関砲撃作戦であり、その後は、対艦用の要塞砲として配備され、本土決戦に備えている間に終戦を迎えた。 ここ由良要塞でも、友ヶ島に計14門、深山・加太に計18門配備されたが、日露戦争時に活躍した大砲が、アメリカの艦隊相手にどこまで通用したのだろうか。時代はもはや、航空戦であり、結局、空襲を受けることもなく終戦を迎えた。 この榴弾砲のピットロード製1/72プラモデルが販売されており、製作してみた。友ヶ島の砲台・砲座に、重ねてみるとおりイメージが深まる。 【二十七糎加農砲(にじゅうななせんちかのんほう)】 フランス・スナイドル社製の最新砲で、217kgの弾を14km飛ばせる威力をもち、紀伊水道や大阪湾内も射程内に収めていたようだ。全国の120を超える砲台の中で、わずか10砲台にのみ設置されたという優れもの。 (和歌山社会経済研究所HPより引用) 【砲台と堡塁】 要塞には、対艦射撃用の海岸砲台である「砲台」と、海岸砲台の背面を守る陸戦砲台の「保塁」とがあり、これらを組み合わせた。
友ヶ島灯台1870年竣工。第1砲台建設のため東に25m移設され、1890年現在の地で再点灯
Copyright (C) Yoshino-Oomine Field Note