Field Guide
                         くりんとのフィールドノート

           
   
 歴史に3度の表舞台、 吉野山・吉水神社
後醍醐天皇玉座

知ったかぶりの吉野山であったことを反省している。
蔵王堂にほど近い「吉水神社(よしみずじんじゃ)」を知らなかった。
まして、3度も歴史の表舞台であったことを知る由もなかった。

◆源義経、静御前悲恋の古跡
こちらの社殿内には、「義経潜居の間」「弁慶思案の間」と呼ばれている座敷がある。
1185年、義経は兄頼朝の追手から逃れ、静御前や弁慶と共に吉野山に潜入したことは有名だが、その潜伏先がここ吉水神社というわけである。
義経一行は、山伏姿に身をやつしてさらにここから南へ下ったとされるが、静御前とは結果的にここで永久の別れとなった、そういう悲恋が残っている。

◆後醍醐天皇南朝の皇居
1336年、後醍醐天皇は京の花山院より逃れ、吉野に潜伏して再起を願う。
ここに南北朝の歴史はスタートするが、天皇は悶々とした日々を経ながら、ついに病となり悲憤の最後を遂げる。
現在、天皇の陵墓は如意輪寺内に鎮座する。
通常、天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は京に向けて北面している。
これは京都に帰りたいという天皇の願いを表したものと言われている。
後醍醐天皇の隠遁先は西吉野の賀名生をはじめ転々とするが、吉野山の潜居先の1つがここ吉水神社であった。
社殿内には、「後醍醐天皇玉座」の間も残されている。

◆太閤豪華花見の本陣
天下統一を経てその権勢も絶頂期にあった1594年、秀吉は、徳川家康、前田利家、伊達正宗らそうそうたる武将を引き連れて、ここ吉野山で盛大なる花見の宴を催した。
数日間にわたってお茶の会、能の会、歌の会を開いて豪遊した際、秀吉の本陣となったのが吉水神社というわけである。
一行は5千名ともいわれ、その絢爛ぶりは『豊公吉野花見図屏風』(細見美術館蔵・京都)でしのぶことができる。

都から見れば、吉野川から向こうは「神仙峡」。
秀吉は別として、権力側から落ち延びた人たちが吉野を目指した理由の一つに、「再生」をもたらしてくれる場所という意味合いがあったのではないだろうか。
自分を見直す場面として、今年は富士登山が大ブームだったと報道されているが、奈良には吉野の山々が鎮座している。

さて、吉水神社には、先に挙げた人物に由来するとされる宝物が数多く展示されてはいるが、果たしてそれぞれの時代とどれくらい整合性があるのか、 少々首をかしげてみる。
しかし、それくらいの主張は、この神社の空気の前に許してしまおうという気になる。
ちなみに最近では、女優の吉永小百合がこちらの神社を尋ねられ、蔵王堂を遠望できる一室から、時を忘れて佇んでいたとうかがった。
吉永小百合と聞いて歓喜する世代は高齢化しつつあるが、私は、歴史の表舞台4度目とカウントしてみた。

 
 
   

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