Field Guide
                         くりんとのフィールドノート

           
   
 木地師の里・大塔惣谷
坪杓子
 
壁には数々の道具が整然と   坪杓子職人新子薫さん
 
作業場   栗の木製コーヒーカップ(漆塗)

 「戦争が起これば、杓子屋が儲かる」なにやら物騒な話だが、新子薫さん(昭和2年生)は笑って言った。かつての日清・日露〜太平洋戦争の頃の話しだが、戦争が始まると、国内の金属資源が不足し、木杓子の需要が伸びたというわけである。実際、第2次世界大戦直後も、目まぐるしい忙しさで、この村では「猫も杓子も杓子づくりをしていた」と新子さんは笑う。大塔村惣谷地区は、こうした坪杓子づくりを生業としてきた村だが、今では新子家一軒になってしまったようである。

 惣谷は、お隣の篠原と同様、木地師たちが拓いた山村である。この地の木地師は、坪杓子や平杓子を、栗の木から削り出し生業とした。元来、杓子作りは天ノ川沿いの天川郷広瀬・塩野・塩谷の三村が盛んであった。国土地理院発行の25000分の1の地形図を見れば、惣谷から標高1100mの高野辻を経て天川村の山西、そして広瀬・塩野・塩谷へと山道が延びている。よい栗林を求めて、天川から惣谷に足を延ばし、ここに集落を拓いたと考えるのは自然だろう。今では、国道168号線から舟ノ川沿いに車道が延びているが、歴史的な結びつきは天川村と強いようだ。
 杓子作りの最初の行程では、たいてい旧暦4月8日の戸開け(山開き)の頃から栗山に入って小屋掛けをし、仲間と何ヶ月もこもって作業をしたらしい。新子さんによると、食事はお粥につけもん(漬物)が中心で、栄養状態はよくなかったそうである。盆や節句などには家に帰ることもあるようだが、山から下りてくるのは秋十月の半ば。それからは、家の囲炉裏そばで完成までの行程を続けた。現在では、栗の木の地元調達も難しく、岩手産のものを使っていると言う。
 こうした山村では、焼き畑を行い黍や粟などの穀物を得ていた。主に女性の仕事である。時には、米や野菜を小屋掛けしている男たちのところへ運んだことだろう。今でも、大塔の女性たちは畑仕事が好きで、緩斜面に築いた畑で家庭菜園に精を出している人が多い。惣谷狂言では、餅撒きがふるまわれるが、黄色い黍餅が混じっているのは、かつての焼き畑の名残だろうか。赤い餅もうれしいが、私は黍餅を持ち帰りたい方である。

 新子薫さんのご子息健さんも、その界では著名な工芸職人である。日本画家平山郁夫さんが献納して話題となった薬師寺大唐西域壁画殿、こちらの入り口に掲げられている額の木地は、健さんの手によるものとうかがった。春日大社から発注された木地の仕事では、白装束の仕事着も手渡され、それを着て作業を行うのが習わしだという。いかにも神事にかかわる仕事のようで、奈良らしさを感じた。
 現在、確かな技を伝えてきたお二人の腕は、(薫さんの)孫の光さんが受け継いでいる。坪杓子そのものの需要が減少するなか、こうした伝統産業の維持は厳しいと思われるが、山村の確かな灯りとして頼もしい。

 
 
   

Copyright (C) Yoshino-Oomine Field Note