Field Guide
                         くりんとのフィールドノート

           
   
 大塔篠原踊り (奈良県指定無形文化財)



 

 篠原踊りについて、次のような伝説が残っている。

 昔々、篠原の付近には猪、狼などの猛獣が多く生息して村人たちに多くの害を与えたが、その中に特に大きな狼がいた。この狼から受ける被害はたいへん大きいので、村人たちは退治に出かけたが、狼の姿が見えず終日駆けまわって疲労の極に達した時、突如この狼が現われ、人々の狼狽している時にその指揮者たる村の長を食い殺したので人々の意気は消沈した。しかし、その被害はますます募るばかりであるので、最後の大評定の結果、沢田屋嘉門という者の提唱によって氏神様にお祈りをこめ、村中総出で踊り、神慮を慰め奉って成就を祈願した。この結果、遂にその目的を達し平和な村にかえった。この神慮を慰め奉った時の踊りが実に篠原踊りの始まりであるといわれ、今日まで続いている。
                                                                                                           (『大塔村史』より)

 篠原は、お隣の惣谷と同様、天川村から山一つ越えて木地師たちが拓いた山村である。坪杓子だけでなく、もとはろくろ木地も行っていたと文献にある。国土地理院発行の25000分の1の地形図を見れば、標高1183mの川瀬峠を経て天川村の和田まで山道が延びている。さらに足を延ばせば下市へと通じ、出来上がった杓子を売りに出かけたことだろう。こうした村では、たいてい焼き畑も行い、黍や粟などの穀物を得ていた。男は山に入って小屋掛けで木地の仕事、女は焼き畑というのが生計の基本であった。
 こうした焼き畑は、民家から少し離れた山腹の開けた斜面に作られることも多いが、当然、シカやイノシシ、サル、ウサギなどの食害に頭を痛める。それらの害獣を捕獲してくれたのがニホンオオカミであり、決して人間の天敵ではなかった。ただ、オオカミにとっては、人間は唯一の天敵だったであろう。篠原に残る先の伝説は、お互いに不幸な正面衝突であったのかもしれない。他にオオカミの伝説は残っていないか、この村で聞き取り調査を行ったこともあるが、「オオカミの牙を根付けにして持っている人がいた」とか、「亡くなった母が、オオカミの死骸を見たと話してくれた」など皆無ではなかった。また、オオカミにとってかわる猟師の存在も、この村に多いように思われる。
 近年、木地師は惣谷の方に存在するのみで、こちらは林業に従事する人が多かったが、例に漏れず過疎化が進み、現在は、十数世帯といういわゆる限界集落の危機に瀕している。

 さてこの村には、奈良県指定無形文化財の篠原踊りが伝わり、毎年1月25日、天神社に奉納される。近年は、惣谷狂言も同日に行われ、それぞれ午前と午後に時間を分け合っている。したがって、一日で2つの山村芸能を見学できるわけだ。
 その舞台となるのは、車道から500mほど山道を登ったところに鎮座する天神社の境内。最初に、ご神体がおさめられている祠の戸を開けお酒や野菜などを奉納する神事が執り行われる。そして、「梅の古木踊り」「宝踊り」「世の中踊り」の3曲が奉納される。太鼓手(太鼓を打ちながらの男踊り)が前列、踊り子(女踊り)が後列と分かれ、祠に対面する形で演じられる。かつては、村人も多く大変な賑わいだったようで、歌い手は踊らず歌い専業であった。一説には、この踊りは念仏踊り系の風流であり、時宗の徒によって持ち込まれたのではないかと言われている。かつては48番もの歌と踊りが夜通し奉納されたらしい。しかし、最近は、過疎化のあおりを受け、村出身の村外在住者も参加しながらかろうじて存続させているという状況で、後継の問題は惣谷狂言より厳しい。

 太鼓手は、紋付羽織・袴の正装で、神前に奉納するという緊張感が漂う。踊り子は、扇子を使い優雅で風流な踊りを舞う。動の惣谷狂言に対して、静の篠原踊り。かつては、風流踊りの合間に狂言と、組み合わせて行われていたらしいが、往時の賑わいを想像すると気持ちが高ぶってくる。
 ニホンオオカミの絶滅は100年前に溯るが、それを追いかけるように山村の芸能が1つ1つ消え、舟ノ川にかろうじて伝わる2つの神事、是非見届けに足を運ぶことでエールとしたい。

 
 
   

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