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                         くりんとのフィールドノート

           
   
 五條・藤岡家住宅

 五條市近内町に、2008年11月に公開された「藤岡家住宅」という登録有形文化財がある。地元に人たちにとっては江戸時代の庄屋さんの家として知られていたが、長年空き家になっていたのを現当主が修復、「NPO法人うちのの館」が管理することになったと聞く。
 藤岡家は庄屋以外にも、両替商、質商、薬種商、紺屋など商家としての顔も持ち、店の間のある母屋は天保三(1832)年、また内蔵は藤岡家では最古の寛政九(1797)年の建造という。こうした江戸時代の庄屋・商家の建造物として興味深く、私が訪れた目的でもある。ところが、ここ「藤岡家住宅」を見学し終えて、あと2つの側面があることを知った。
 明治維新以降、藤岡家のような庄屋・商家の子息は、地元の名士としてどのような道筋を歩んだのだろうか。それは明治21(1888)年、父・初代村長の長二郎、母・ナラミツの間に生まれた長男・長和氏の生涯に象徴されているように思われる。氏は三高、東京帝大卒後、内務官僚として各府県を歴任。さらに佐賀、和歌山、熊本県の官選知事を務めたという、今でいう東大卒の高級(キャリア)官僚だったわけだ。私が訪れた時にはちょうど、長和氏の長女・瑠璃子さん愛用の教科書展が催されていたが、大正から昭和初期にかけて、一般庶民に比べて彼女のうけた教育の水準の高さがそれらの教科書を見ただけでも驚嘆のため息にとってかわる。
 ところが、藤岡長和氏の生涯はそれだけでは終わらない。実は、師事した高浜虚子に「大和の大桜」とまで讃えられた俳人・藤岡玉骨としての半生こそ、この藤岡家住宅を最も魅力的にしているのだ。三高時代から文学青年であった玉骨は、内務省官僚として和歌山、神戸、金沢、長野、岐阜と赴任した先々で句友ができ、さまざまな句会に出た。また、昭和三(1928)年、四十歳で徳島県内務部長在職中には「ホトトギス」に投句して虚子の指導を受けた。その間、与謝野鉄幹・晶子夫婦との交流も続き、昭和14年50歳で退官。昭和20年五條に帰郷後は、この「藤岡家住宅」を文化サロンとして構え、俳人玉骨として悠々自適の生活を送ることとなる。こうした文化人としての営みを裏付ける「お宝」が山のように埋もれており、今後の公開が楽しみである。

 さて、この「藤岡家住宅」の管理を行っているのが「うちのの館」というNPO法人だが、玉骨がそうしたように、この場所節を五條の新たな文化交流の場として人々に広く知られ日常的に集うことを目的としているとうかがった。その契機にと季ごとのイベントも企画されているが、2009年8月16日には「YUKATA de night(ゆかた で ナイト)〜座(ざ)・こんさーと〜」が催され、私たちのバンド・エンヤトット一座が招かれた。ライトアップされた長兵衛梅を前に、地元五條をモチーフにした歌を8曲にわたって歌う。こんな演出ができるのは、やっぱりエンヤトット一座だなあと自画自賛です!(笑)

金剛山越えで大阪へ続く旧街道  長和氏の書斎  貴賓の間
 
 
   

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