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                         くりんとのフィールドノート

           
   
 南朝の里・賀名生旧皇居

 旧西吉野村(現・五條市)の賀名生(あのう)の里に、茅葺き屋根の堀家住宅がある。1336年、足利尊氏によって都を追われた後醍醐天皇は、吉野への潜居を見定める一時期、この邸宅に迎えられた。また、1348年、後村上天皇が吉野より難を逃れてここに入り、その後も、長慶天皇、後亀山天皇の皇居となったと伝えられる。幕末の天誅組の変の際、参謀吉村虎太郎が筆をとったとされる「賀名生皇居」の扁額も現存しており、吉野山と共に南朝の史跡として知る人ぞ知る里 がここ賀名生である。現在の家屋は、後醍醐天皇が皇居として使われた後に火災にあっているそうで、間もなく再建され、柱や梁など骨組みにあたる大部分はそのまま使用されていると聞 く。玄関を入ってすぐは大きな土間で、右手に居住空間、左手には使用人の部屋などがある。土間の奥には、7連もある大きなへっついさんが存在感をましているが、時の権力者からは「天皇家によく忠節を尽くした 」ということで特別に認められたと説明を受けた。

 堀家は藤原家の末裔として熊野の初代別当として陸奥の国から移り、その後代々別当職を継ぎながらこの地に居を構えたらしい。近年、その堀家は東京に移り、戦前は軍の士官として第一師団長や統幕第二室長を歴任した子息もおられるるようだが、現在は元夫氏夫妻が東京からこちらに戻り 、この家屋を守っておられる。こちらを見学するには、往復はがきでの事前連絡が必要だが、今回は奥様から丁寧に説明を受けた。

 堀家住宅のすぐ近くには「賀名生の里歴史民俗資料館」がある。南朝の歴史を学ぶにはこちらを訪れるとよいだろう。
皇室と所縁のあった堀家の宝物の多くがこちらに保存されており、後醍醐天皇御賜とされる一節切笛
(ひとよぎりぶえ)や同じく天皇から賜ったとされる日の丸の旗などが存在感を もっている。こちらの館長さんは、物腰柔らかく親切な方で、北畠親房の墓やモミジの美しい華蔵院跡など周辺情報はとても詳しい。

天誅組吉村虎太郎筆(今はレプリカが掲げられている)

 賀名生の里歴史民俗資料館

 
 
   

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