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三内丸山遺跡とクリ林

大型掘立柱建物と大型竪穴住居

●縄文人の大集落跡発見
 1992年から始まった県立野球場建設に先立つ発掘調査で、前例のない巨大な集落跡が姿を現し、膨大な量の土器や石器、土偶などが出土した。その後、直径1mのクリの巨木を使った大型掘立柱建物跡が発見されるなどして、その保存を求める世論も高まり、野球場の建設工事は中止、2000年には国の特別史跡に指定された。

●クリの栽培
 三内丸山遺跡は今から約5500年前〜4000年前の縄文時代前期中葉から中期末の集落跡で、食料事情としてはヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、さらにDNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、縄文文化の食のイメージも大きく変わった。 そこで、この遺跡のこの時代の食料事情を、出土品やその後の研究調査結果から次のように要約できる。
 まず、三内丸山遺跡は、八甲田山に連なる台地の縁に位置し標高は約20m、集落のすぐ北側には沖館川が流れている。このムラが営まれていた頃、海はすでに現在の位置まで引いていて、海岸や干潟沿いの集落ではなかった。したがって、動物性の食料はいくぶん離れた内湾や周辺の森林、川からもたらされ、花粉分析の調査結果から、むしろ植物性の食料に重きを置いていたと考えられている。

 花粉分析によると、集落ができる前に広がっていたナラ類やブナの森は、居住が開始されると急激にクルミ属、さらにはクリ林にとってかわったことがわかる。これは集落ができる前の落葉広葉樹林を開拓してつくった生態系で、その後も有用な食物を得るためにいつも人手をかけて維持されていたと考えられる。この有用で人為的な生態系は、クリ林のみならず、オニグルミ林、ウルシ林、エゾニワトコ林、あるいはワラビの群生地も含んでいたと考えられている。
 野生グリの場合、実はあまり大きくなく、甘さにもあたりはずれがある。そこで、甘くて、大きな実が大量になるクリの樹が、食料源として注目され、他は建築材などに使われ淘汰されていく過程があったであろう。さらには、そうして人為的に選別された堅果を、収穫しやすい集落の周辺に撒き、栽培するという術も会得していたのではないかと考えられる。「桃栗3年柿8年」と言われるから、最短3〜4年のサイクルで次の選別・栽培が行われ、次第に現在のような大きくて甘い園芸種のクリが生まれてきたと推測される。新潟県青田遺跡で出土したクリの皮の場合、大きなものは幅が57mmもあった。三内丸山遺跡でも、花粉だけでなく、廃棄されたクリの果皮が大量に出土しており、栽培によって収穫した重要な食料であったことがわかる。また、クリは建築材としても重宝され、直径約1mもの柱根が見つかっている。そのほか、道具を作る材料として、また燃料としても使用されていたと思われる。

●三内丸山人の動物食
 三内丸山遺跡から出土した縄文前期の動物遺体約5万点を分析した結果、そのうち約4万5千点は魚類であり、残りは哺乳類と鳥類であった。魚類ではマダイやヒラメが縄文時代の遺跡では一般的だが、三内丸山ではブリの若魚とサメ類が著しく多い。また、体長1mはあろうかと思われるマダイの骨、さらにクジラやアシカなど海獣の骨も見つかっている。
 一方、哺乳類に関しては、縄文遺跡の平均的内容と比べてシカやイノシシの割合が少なく、ムササビとノウサギで哺乳類全体の75%を占めているのがこの遺跡の特徴である。現在の哺乳類の生息地と照らし合わせてみた場合、雪深い東北以北はイノシシがほとんど生息せず、ニホンジカも岩手県を除いて数が少ないことが、先の特徴の一因と考えられる。また、この地方にはツキノワグマやニホンカモシカ(現在は天然記念物)を対象としたマタギという文化も伝わるが、当時の石器での猟は難しかったのかもしれない。
 鳥類では、カモ類が鳥類全体の約76%を占めており、ガン類、ウ類、キジ類を含めれば全体の90%となる。ニワトリサイズの鳥類が食肉としても適していたことがわかるし、現在人の味覚にも通ずる味覚だったのかもしれない。

遺跡から発掘された縄文人の食糧の痕跡(左から植物の種子、哺乳類の骨、魚の骨)

【引用文献・図】
○ 週刊朝日百科「日本の歴史」三内丸山・縄文人の世界
○ 「三内丸山遺跡 −縄文時代の大規模集落−」青森県教育庁文化財保護課 三内丸山遺跡保存活用推進室(pdfファイル冊子)