Guitar Case 116

Guitar Case > 2023

Concert For George

 この夏、「"Concert For George"、7月28日(金)公開、TOHOシネマズ シャンテほかにて上映」といった映画情報を目にした。
 2001年11月29日、58歳でこの世を去ったジョージ・ハリソンの追悼公演が、没後1年目に、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、妻オリヴィアと親友エリック・クラプトンによって主催された。ポール・マッカートニー、リンゴ・スター、トム・ぺティ&ザ・ハートブレイカーズ、ラヴィ&アニューシュカ・シャンカール、ジュールズ・ホランド、ジェフ・リン、さらに、コメディ・グループのモンティ・パイソンらが出演した。
 2022年、追悼コンサート開催20周年を記念して、海外では高音質リマスター版「コンサート・フォー・ジョージ」が上映され、2023年には、ジョージの生誕80年を記念し、日本で初上映されることになったのだ。
 ジョージのファンである私の息子に、この映画情報を知らせると、すでに"Concert For George"のブルー・レイを持っているという。2018年に発売されたものだった。結局、映画は見に行かず、息子からブルー・レイを借りて、この夏、繰り返し視聴した。

 最初に驚いたのは、このコンサートのステージに立つ、若い頃のジョージである。目を疑ったが、やがて、ジョージとオリヴィアとの間に生まれた息子ダーニ・ハリスン(当時24歳)が出演していたことを知る。その時、ポール・マッカートニーは「ジョージが昔の姿のままここにいるみたいだ」と評している。コンサートの中盤から、リンゴ、ポールがステージに立ち、ダーニを加えて3人の姿が同時にそろうと、ビートルズの再結成を彷彿とさせる。
 私が食いついたのは、ジョージが生前大ファンだったというイギリスのコメディグループモンティ・パイソン。マイケル・ペイリンの司会挨拶に始まり、「シット・オン・マイ・フェイス」「木こりの歌」の合唱で(木こりの歌では俳優のトム・ハンクスが森林警備隊として参加)、会場が笑い渦に包まれる。個人的には、合唱隊のコントが大好物。

 つづいて、ジョージと親交のあったミュージシャンたちによるジョージのナンバーが演奏される。このコンサートを仕切っているのは、事実上、エリック・クラプトン。ジョージとの親交の厚さやダーニが寄せる信頼から、だれも疑問を挟む余地はない。しかし、ジョージとクラプトンは、第三者が相容れない不思議な関係だ。クラプトンはジョージと親密な交際をする過程で、妻のパティ・ボイドと出会う。そして、彼はパティに夢中になり、この片思いはドミノスのアルバム『いとしのレイラ』の曲の大半に現れた。1974年にジョージが彼女と離婚した後、クラプトンはパティと同居を始める。ジョージから奪い取ったのではなく、彼の気持ちが冷めていく過程で、パティはクラプトンのもとへ身を寄せたのだろう。それでも、ジョージとクラプトンの関係は壊れることはなかった。(後に、クラプトンとパティは離婚。)
 ローリング・ストーン誌の「史上最高のギタリスト100人」で2位に選ばれたクラプトン。(1位は ジミ・ヘンドリックス)ギターリストとしての彼の名声は言うまでもないが、このコンサートで、ヴォーカリストとしての魅力を再認識した。“If I Needed Someone”“Beware Of Darkness”などでヴォーカルを担当。少し上向き加減で、表情をあまり変えず、誠実に歌う姿に引き込まれていく。そして、“While My Guitar Gently Weeps”では、お待ちかねのギターソロをレスポールで泣かせてくれるのだ。

 ジョージの曲を演奏するにあたって、各ミュージシャン、このコンサートのために十分なリハーサルの時間をとれなかったであろうから、原曲のレコードのアレンジに忠実に演奏することが合い言葉だったと思える。各パートはそうして用意し、このコンサートに臨んだのだろう。
 しかし、ポール・マッカートニーだけは違った。“Something”をウクレレのソロで弾き語りを始めた。1番を歌い終えたところで原曲のアレンジに戻り、リードヴォーカルもエリック・クラプトンに取って代る。ビートルズのオリジナルメンバーとして、ジョージの曲とは言え、過去の作品をなぞるようなステージはプライドが許さないのであろう。

 ラストは、ジョージが敬愛するジョー・ブラウンによるウクレレ演奏の「夢で逢いましょう/I'll See You In My Dreams」。ビートルズがまだ無名の頃、マネージャーのブライアン・エプスタインは、彼らを売り込むために、当時人気のあったジョーの前座にねじりこんだという逸話がある。この時、楽屋においてあったジョーのギブソンを、彼がいない隙にジョージが嬉しそうに抱えて撮った写真が残っている。これまでのミュージシャンたちの演奏とは一転して、天井から花びらが降り注ぐなか、ウクレレを手に優しく歌い上げるジョー・ブラウン。コンサートのエンディングにふさわしい演出であった。

1 Your Eyes Anoushka Shankar
2 The Inner Light Jeff Lynne and Anoushka Shankar
3 Arpan conducted by Anoushka Shankar
4 Sit On My Face Monty Python
5 The Lumberjack Song Monty Python with Tom Hanks
6 I Want To Tell You Jeff Lynne
7 If I Needed Someone Eric Clapton
8 Old Brown Shoe Gary Brooker
9 Give Me Love Jeff Lynne
10 Beware Of Darkness Eric Clapton
11 Here Comes The Sun Joe Brown
12 That's The Way It Goes Joe Brown
13 Horse To The Water Jools Holland and Sam Brown
14 Taxman Tom petty and the Heartbreakers
15 I Need You Tom Petty and the Heartbreakers
16 Handle With Care Tom Petty and the Heartbreakers
with Jeff Lynne and Dhani Harrison
17 Isn't It A Pity Billy Preston
18 Photograph Ringo Starr
19 Honey Don't Ringo Starr
20 For You Blue Paul McCartney
21 Something Paul McCartney and Eric Clapton
22 All Things Must Pass Paul McCartney and Eric Clapton
23 While My Guitar Gently Weeps Eric Patrick Clapton
24 My Sweet Lord Billy Preston
25 Wah Wah Eric Clapton and Band
26 I’ll See You In My Dreams Joe Brown
 
Eric Clapton & Dhani Harrison   Jeff Lynne,Clapton & Tom petty
 
Joe Brown   Monty Python
 
     

by くりんと

Guitar Case 115

Guitar Case > 2023

キャンディーズ『年下の男の子』彼女たちのJポップ革命

   

 BS103名盤ドキュメント「キャンディーズ『年下の男の子』彼女たちのJポップ革命」(2023年10月7日放送)を視聴した。
 1973〜1978年に活躍したトップアイドルのキャンディーズ。音楽事務所の傘下にある東京音楽学院で3人は出会った。デビュー前から、当時の超人気番組「8時だよ全員集合」に出演はしていたが、1stシングルの「あなたに夢中」以降、3作目まで楽曲のヒットは鳴かず飛ばずであった。
 ところが、1975年に発表した4作目のシングル「年下の男の子」で大ブレイクし、最高9位まで駆け上がる。この曲は、アルバム「年下の男の子」に収録されており、他に「春一番」や「愛のとりこ」などを含む名盤としての誉れが高い。この番組では、「年下の男の子」による大ブレイクの秘密を、当時のスタッフを迎えて16チャンネルの音源を聞きながら振り返っている。
 以下、番組の内容を要約してみた。

【革命その1】
 1stシングルの「あなたに夢中」から3作目までは、一番年下のスー(田中好子)がヴォーカルをとっており、3人の中では最もヴォーカルの評価が高かった。しかし、鳴かず飛ばずの中、ス〜だけ残して解散させようかとささやかれるなど、まさに崖っぷちアイドルであった。
 そして、シングル4作目「涙の季節」で路線変更を決断する。センター及びヴォーカルをランに変えた。スーの声が一番まもとで、あとの二人はコーラスと考えられていたが、ファンレターの数に(スー7:ラン2:ミキ1→スー2:ラン7:ミキ1)変化が見られるようになってきた。松崎氏によると、「7のところに勝負をかけたほうがいい」ということで、ランをメインにしたというのだ。本来なら波風たつところ、一番年下のスーの学校問題(高校留年?)があったため、ランへの移行がスムーズにいった。
 秋元康氏は、「キャンディーズが偉大なのは、センターを変えたこと。メインを視覚的に訴えた。3人組の真ん中にいる人。その後の、おニャン子クラブ、モーニング娘、AKB48もセンターがだれか?ということを踏襲、その原点は原点はキャンディーズだった。」と述懐している。

【革命その2】
 アルバム「年下の男の子」の制作に関わったレコーディングディレクターの松崎澄夫、ギタリストの水谷公生は、グループサウンズ「アウト・キャスト」のメンバーであった。GSではあったが、オリジナル曲にこだわったものの、1年余りで解散した。そうした縁から、松崎は、同じくアウト・キャストのメンバーだった穂口雄右を誘い込み作曲を依頼した。はぐれもの(アウト・キャスト)たちは、キャンディーズで再び結集したのだった。
 穂口が作曲した「年下の男の子」は、難しい曲でヴォーカルをとることになったランは、異質で好きじゃなかったと述懐している。穂口が取り込んだ洋楽のエッセンスだが、こともあろうにアイドルグループにブルー・ノート・スケールの音階を歌わせた。「年下の男の子」は、レイ・チャールズの「Hallelujah I Love Her So」にインスパイアされたものだと、本人が述べている。
 一方、水谷のギターは、先の曲で、ペンタトニックスケール(5音でできた音階)やひずみを用い、「りんご追分」的な日本らしい曲調も特徴である。

「そよ風のくちづけ」(編曲:穂口雄右)
「なみだの季節」(作曲/編曲:穂口雄右)
「年下の男の子」(作曲/編曲:穂口雄右)
「内気なあいつ」(作曲/編曲:穂口雄右)
「その気にさせないで」(作曲/編曲:穂口雄右)
「春一番」(作詞/作曲/編曲:穂口雄右)
「夏が来た!」(作詞/作曲/編曲:穂口雄右)
「わな」(作曲/編曲:穂口雄右)
「微笑がえし」(作曲/編曲):穂口雄右

【革命その3】
 キャンディーズの3人は、最高のコーラスグループであった。新曲ができたときは、まず、3人で歌詞の朗読を繰り返してブレスの位置の確認した。その結果、3つの声がまるで1つの声のようにすばらしいユニゾンを聞かせた。また、ランに由来する「年し〜た」「ハウ」「ウウ〜ン」といったフレーズやコーラスのアーティキュレーションを整えた。
 一方、絶対音感を持つミキは、ランやスーに、本番前に鍵盤をたたいてよく教えていたそうだ。「もうすぐは〜るですね」の部分は、ミキが普通にやってるときからハモってしまうので、そこはハモりを取り入れたそうだ。また、音域が広かったので、低音パートを担うことが多く、3人のコーラスに安定感をもたせた。
 ミキの歌唱力を最も評価していたのは穂口である。同アルバムの「愛のとりこ」では、ミキがリードヴォーカルをとっているが、アイドルは寿命が短いため、ミキを中核にすれば、息の長い最強のコーラスグループになれると、ミキを前提に作ったリズム&ブルースの曲である。

 1977年7月、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、「私たち、9月で解散します」と突如解散を発表する。その時、ランが泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!!」は、当時の流行語にもなった。大人たちが作ったアイドル路線を蹴って、自分たちの行きたいところへいく。いつまでも大人の駒ではいられない。スタッフはだれも知らず、今では、考えられない発言・行動だったが、渡辺プロの社長渡辺晋氏が、その後、きれいな引き際を作ってくれた。
 こうしたキャンディーズの歴史を知った上で、今一度、アルバム「年下の男の子」を聞いてみようと思う。

by くりんと

Guitar Case 114

Guitar Case > 2023

ビートルズの革命 赤の時代 『のっぽのサリー』が起こした奇跡

Little Richard Paul MacCartney

 私が10代の頃(1961年生)、ビートルズに夢中になった。中学生の時、買ってもらったラジカセで、FM放送のエアチェックを楽しみとしていた。私の住む地域では、NHKのFM放送しか受信できなかったが、ある時、ビートルズ特集があって、何時間もビートルズが流れた。その時、カセットテープに録りこんだモノラル録音の楽曲を、モノラルのヘッドホーンで勉強の合間に聴き始めた。英語の歌詞が分からないので、シンコー・ミュージックから出版されたいた楽譜本を買い、英語の歌詞を諳んじた。
 それ以降、ビートルズの深みにはまり込んでいったのは言うまでもなく、ビートルズ本を読みあさり、それぞれのソロ・アルバムや動向を追いかけ、映画や動画を繰り返し視聴した。ギターを持ちバンドを組んで“ビートルズごっこ”みたいなことを未だにやっている。ただ、ビートルズのコピーは、私にとってとてもハードルが高く、こちらはとっくの前に挫折した。
 そんな私にとって、NHK総合/映像の世紀バタフライエフェクト「ビートルズの革命 赤の時代 『のっぽのサリー』が起こした奇跡」(初回放送日: 2023年6月12日)という番組は、今まで耳にしたことのないとても新鮮なテーマだった。まず、ビートルズがカヴァーしているリトル・リチャードの“Long Tall Sally”こそ、ジョンとポールを結びつけ、すべての始まりとなったKeyとして仮説を立て、この番組を開錠し、最後に閉めている。そして、それ以上に興味を持ったのが、60年代、突然選ばれし者となったビートルズは、あらゆる自由への導火線に火をつけていったというもう一つの仮説だ。その導火線の延長線上には、イギリスの労働者階級やアメリカ黒人の公民権運動があった。

 1940年生のジョン、父は船員で労働者階級、両親は離婚していた。1942年生のポールも、労働者階級の家庭で、母を早くに亡くす。
 第2次世界大戦後のリーバプールには、アメリカ兵が駐留しており、エルビスなどのロックン・ロールをはじめアメリカの新しいレコードが入ってきていた。その中に、黒人歌手リトル・リチャードの“Long Tall Sally”という1枚もあった。この曲を聴いたとき、ジョンは、「初めて“Long Tall Sally”を聴いたときはあまりにもすごすぎて言葉が出なかった。あんなにすごいものがこの世に存在するなんて。(中略)15歳の僕の心を射貫いたのは、ロックン・ロールただ1つだった。」と振り返る。一方、ポールは、「リトル・リチャードの歌声は、天国から聞こえてくるようでもあり、同時に地獄からのようでもあった。ある日、彼の歌声を真似してみると、自分にもできることが分かった。大事なのは、自分の中の羞恥心をすべて消し去ること。あとはやるだけだった。」と述べている。
 1957年、ポールは友人に誘われて、ジョンが所属するクォーリーメンのライブを見に行った。その時がジョンとの初めての出会いで、ポールはピアノで“Long Tall Sally”を歌って見せた。ジョンはポールをバンドに誘った。後にポールは、「バンド(クォーリーメン)に加入するきっかけとなった曲のコードを知らなかったら、ぼくは小さなパブ・バンドで演奏していたかもしれない。」と言っている。
 1960年、イギリスでは徴兵制が廃止され、当時、21歳以下の男子であった3人は徴兵から逃れることができた。後に、ポールは、「ビートルズのほんとにすごいところは、すんでのところで、徴兵から逃れられたことだ。(中略) 僕らには、自由と60年代が味方についていたんだ。」と述懐している。
 中流階級でレコード店を経営していたブライアン・エプスタインが、彼らのマネージャーに名乗り出る。モップヘアーに、襟なしのスーツを着せ、1曲終わるごとにおじぎをさせるなど、幅広いファンを獲得するために、清潔さと礼儀正しさを備えさせた。やがて、“Please Please Me”や“I Want to Hold Your Hnad”など次々とヒット曲を生みだし、アイドル並みのファンを獲得していったことは言うまでもない。

 当時のイギリスでは、上流階級(貴族・大地主)、中流階級(医師・弁護士など裕福な家)、労働者階級(単純労働に従事)に分かれ、こうした階級は代々固定化されていた。ちなみに、労働者階級は人口の3分の2を占めている。

 1966年のBBC制作番組「Class sketch」では、以下のように階級社会を風刺している。

 上流階級に扮した人物:
 私はよい血筋をもっていますが、お金を持っていません。だから、時々、中流階級にあこがれます。
 中流階級に扮した人物:
 上流階級を尊敬しています。お金は持っていますが、私には品がありません。だけど、労働者階級ほど下品ではないので、彼のことは見下しています。
 労働者階級に扮した人物:
 私は自らの身分をわきまえています。

 
   

 1963年、王室臨席のもとで開催されたロイヤル・バラエティ・パフォーマンスに、ビートルズは出演した。ロックンロールは労働者階級の低俗な音楽であって、上流および中流の階級の人たちが聴く音楽ではない、というのが当時の一般的な感覚であり、王室の人たちを前にして歌を披露することは、それまで考えられないことであった。19組招待された中の7番目に登場したが、客席は紳士淑女が取り澄まし鑑賞していた。ジョンは、4曲目の最後の曲“Twist and Shout”を紹介するとき、客席に向かってこんな言葉をなげかけた。「最後の曲になりました。皆さんにも少し協力していただきたいと思います。安い席の皆さんは拍手をして下さい。あとの方々は、宝石をジャラジャラ鳴らして下さい。」ジョンはそう言って、笑顔でエリザベス皇太后に一礼をし、客席は笑いに包まれた。音楽とユーモアで階級の壁を飛び越えていったのだ。
 一方、イギリスの女優・モデルで、「ミニ(スカート)の女王」として日本でも人気だったツイッギーも労働者階級の生まれだった。ある記者からのインタビューで、「自分の成功に戸惑っていませんか。生まれはごく普通の労働者階級ですよねえ。」と問われると、「いいえ、なぜ戸惑う必要があるの。ビートルズが階級の壁を壊した。育った環境なんて関係ない。才能があれば成功できるの。」と答えている。

 1960年代、アメリカでは黒人の公民権運動(人種分離法のもとで差別を受けていた黒人の、法律上平等な地位を獲得するための反人種差別運動。)が佳境を迎えていた。1963年、キング牧師の有名な演説“I have a dream.”は、リンカーン記念館の階段上で、20万人をこえる支持者の前で行われ公民権運動に大きな影響を与えた。そして、ジョンソン大統領とキング牧師らの粘り強い働きかけにより、1964年、公民権法が制定され、法律上の人種差別は終わりを告げる。
 ビートルズは、この公民権運動の支持を公言していた。彼らは、とりわけ黒人ミュージシャンに敬意を払っていたのである。「僕らのやっていることの多くが、リトル・リチャードや彼のスタイルのおかげなんだ。彼はよく、『ポールが知っていることは、全部僕が教えたものなんだ』と言っていたが、その通りだと僕は認めるよ。」とポールが語っている。
 1964年に、アメリカ初上陸したビートルズ。出演した人気TV番組「エド・サリバンショー」では42%の視聴率を得、アメリカでも人気はうなぎ上りであった。しかし、予定されていたコンサート会場の1つ、フロリダ州ジャクソンビルのゲイターボウルでは、観客席が人種で分けられることを知った。黒人差別の激しい地域である。「人種隔離をするならコンサートはしない。イギリ人はみんなそう考えてるさ。」と、ビートルズは演奏を拒否した。結局、主催者側が譲歩し、人種で分けていた観客席を統合してコンサートは行われた。
 さらに、1965年、カリフォルニア州デイリーシティにあるカウパレスで開かれたビートルズの出演契約書には、「人種で分けられた観衆の前で演奏する必要はない」と明確に記され、マネジャーのブライアン・エプスタイン氏が署名している。
 このように、ビートルズは、自国の階級社会やアメリカの人種差別に対しても、彼らなりのやり方で風穴を開けたわけだ。突然選ばれし者となったビートルズは、あらゆる自由への導火線に火をつけていくことになるが、ポールは、「その導火線に火をつけた張本人は60年代という時代そのものであって、僕らはその一部に過ぎなかったと思っている。」と語っている。

 世界中をツアーで回るビートルズは、やがて、ステージ演奏して部屋へ帰るといった、まるで軍事演習のようなライブにいつしかうんざりし、時には身の危険を感じる出来事にも遭遇する。さらに、ジョンが新聞のインタビューで何気なく発した「ビートルはキリスト教より有名」という発言に、キリスト教批判ととらえられ、アメリカをはじめ各地でビートルズボイコット運動が続いた。ジョンは釈明に追われた。こうして4人は、人前に出て演奏することの意欲が奪われていった。
 1966年8月29日、サンフランシスコ公演を最後のステージと決めたビートルズ。コンサートの最後に選んだ曲は、ジョンとポールを結びつけ、すべての始まりとなった“Long Tall Sally”であった。

by くりんと

Guitar Case 113

Guitar Case > 2023

We are the world  & ハリー・ベラフォンテ

 2023年の5月のある日、ラジオの音楽番組を聴いていると、「We are the world」が流れていた。後日、別の番組でも、「We are the world」が流れた。1985年、アフリカの飢餓救済のために、マイケル・ジャクソンやブルース・スプリングスティーン、スティービー・ワンダーやボブ・ディラン、レイ・チャールズなどのアメリカのスーパースターたちが結集して生まれた楽曲だ。私も、ささやかながらその一助にと、LPレコードを購入したことを思い出す。それと同時に、そのミュージック・ビデオも発売されたが、短いフレーズに全魂を注ぎ込み、リレー式で、あるいはハーモニーを合わせながら歌うシーンは、繰り返し視聴したため脳裏に焼き付いている。
 30年近く前のこの曲が、なぜ今、繰り返し電波に乗っているのか。たまたまの偶然なのか。すると、FM COCORO 5月14日放送の「RADIO SHANGRI-LA」という番組内で、「USA for Africa」の提唱者であるハリー・ベラフォンテ氏が、2023年4月25日96歳でなくなったことを知った。1985年、イギリスで活躍するミュージシャン、ボブ・ゲルドフが提唱したバンド・エイドの成功に触発され、エチオピアなどアフリカにおける飢餓の現状を救済するため、寄付を募る「USA for Africa」のプロジェクト発起人の一人こそ、ハリー・ベラフォンテ氏なのである。「We Are the World」に集まった豪華なミュージシャンの顔ぶれは、氏への信頼と尊敬の証であろう。
 ベラフォンテ氏は、1927年3月1日、ニューヨーク市のハーレム生まれで、父は仏領マルティニーク系黒人、母はジャマイカ系の歌手・俳優である。1956年、「バナナ・ボート」が世界的な大ヒットとなった。ジャマイカの労働者がバナナを船に積み込むときに歌う労働歌を元に作られた曲で、日本でも江利チエミたがのカヴァーしヒットした。この大ヒットで、「カリプソの王」と呼ばれるようになる一方、ブロードウェイのミュージカルを映画化した「カルメン」に出演して映画スターにもなった。
 ベラフォンテのコンサートを観た三島由紀夫は、「ここには熱帯の太陽があり、カリブ海の貿易風があり、ドレイたちの悲痛な歴史があり、力と陽気さと同時に繊細さと悲哀があり、素朴な人間の魂のありのままの表示がある。そして舞台の上のベラフォンテは、まさしく太陽のやうにかがやいてゐる。」として大絶賛している。

 ベラフォンテ氏は、歌手としてのビッグ・ネームを持つ一方、生涯を通じて公民権運動(1950〜60年代にかけて、アメリカ合衆国の黒人が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆的な社会運動)に積極的に関わってきた人物である。親交のあった公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師は、ニューヨークにあるベラフォンテさんの豪邸に滞在し、戦略について語り合ったり、重圧から逃れたりしていたという。また、南アフリカでは反アパルトヘイト(人種隔離)運動を率いてネルソン・マンデラ氏とも親交を結んだ。
 それぞれ多忙なミュージシャンたちの時間を節約すべく、昼夜を問わず進められた「We Are the World」のレコーディング中、くたくたになっていたミュージシャンたちが、突然、、「バナナボート」を歌い始めた。アル・ジャロウがリードを歌うと、多くのシンガーがそれに応えるようにコーラスしている。こうしたレコーディング風景に、当時の私は、その場の空気を全く推察できていなかった。USA for Africaの提唱者の一人であるベラフォンテ氏に、敬意を表した一曲でも会ったのだ。カメラは、コーラスが始まるとベラフォンテ氏の表情もきちんと捉え、微笑ましいムードが支配していたのが印象的である。

【参照】
◇CNNニュース
2023.04.26 Wed posted at 13:13 JST
「米歌手ハリー・ベラフォンテさん死去 社会活動に貢献、反権力の姿勢貫く
◇Wikipedia「ハリー・ベラフォンテ」

 
 
  We are the world.レコーディング・シーンより

by くりんと