【田代 美代子】
1965(昭和40)年、和田弘とマヒナスターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」が大ヒットした。それまでもマヒナスターズは、松尾和子や吉永小百合、三沢あけみら女性ヴォーカルを迎え入れたデュエット曲をヒットさせており、この曲には新人の田代美代子が抜擢された。
当時、私は4歳。テレビを通して流れてくるこんな大人の歌が、なぜか大好きだった。それから50年、今なおこの曲を耳にすると高揚感をおぼえる。その大きな理由は、艶やかな田代美代子のヴォーカルということに尽きるだろう。私は、今まで、田代美代子のビジュアル的なイメージがうすく、松尾和子や五月みどりのような豊艶でフェロモンたっぷりのお姉さんが歌っていると思い込んでいた。田代美代子が病気休養のあと、1985年頃から歌手活動を再開し、以後テレビなどで姿を見かけたように思うが、その時はすでに40歳を超え、確かに豊艶な女性であった。
ところが、最近、あるTV番組で1965年のヒット当時の映像が流れているのを見かけ、私の目を疑った。まったく私のイメージと異なった、清楚な吉永小百合っぽいお嬢さん(当時22歳)が、「愛しちゃったのよ〜」とあまい声を発している。しかし、よく聴くと音程が確かで伸びやかな声量も持ち合わせており、それなりの教育をうけた歌い手かもしれないと感じた。
ネット情報だが、少し調べてみると、彼女の驚くべき経歴が明らかとなる。
○ 1943(昭和18)年生まれ東京都出身で、「明治学院大学中退」というものの当時としては超高学歴。
○ シャンソン歌手石井好子が主催するコンクールで見いだされ(ちなみに加藤登紀子も同じ)、石井に師事してシャンソンを学ぶ。鈴木敏夫からはジャズを学び、銀巴里などで歌う。
○ 1965年「赤い砂漠」でデビュー、同年、早くも「愛して愛して愛しちゃったのよ」が大ヒットし、一躍時の人(歌手)となる。
○ 1975年に急性膵臓炎を患い休養宣言。1982年(昭和57年)に石井好子の後押しで歌手復帰し、活動を再開する。
○ ユネスコの活動の参加でも知られ、日本ユネスコ協会連盟の中央委員・理事・評議員などの要職を歴任、現在はスペシャルアドバイザーとして活動する。
○ 早稲田大学大学院教育学研究科修士課程入学試験に合格し、2011年から早稲田大学大学院生として教育学を学ぶ。
○ 病気療養中に野菜の大切さを知、2011年食育ソムリエの資格取得。現在、歌の他、生涯教育・食育等の講演も積極的に取り組んでいる。
彼女の歌の実力は、師事した石井好子のお墨付きであり、一方で、持ち合わせた知性は休養復帰後開花し、社会貢献もあわせて彼女の精力的な活動は、70歳を超えた今なお輝きを放っているとお見受けした。
【浜口 庫之助】
さて、話は「愛して愛して愛しちゃったのよ」に戻るが、作詞・作曲は浜口庫之助。1917(大正6)年、神戸市生まれの浜口は、建設会社を経営する実業家の家に育ち、家庭環境は非常に裕福だったという。音楽好きな一家にも育った彼には、いろんな楽器に親しむ環境も整っていたに違いない。旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)受験に失敗するが、最終学歴は青山学院高等商学部卒。戦後、東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行っている。
彼もまた、その時代にしては高学歴のお坊ちゃん育ちである。戦中を生き抜いたというよりは、むしろ、西洋的な文化や価値観が大衆にまで行きわたり開花した大正モダンを享受したのではないだろうか。
彼の作詞・作曲である「涙くんさよなら(1965年)」「バラが咲いた(1966年)」「夕陽が泣いている(1966年)」「エンピツが一本(1967年)」などの歌詞をみると、とてもロマンチストな人だなと思う。そして、その極めつけが「愛して愛して愛しちゃったのよ」。「愛」=LOVEであり、博愛、夫婦愛、親子愛、師弟愛とあるように、見返りを求めない絆である。男女間で恋愛感情を抱いたのなら、例え「生きているのがつらくなるよな長い夜」を迎えようと、ここは「恋しちゃったのよ(ララランラン)」
ではないか。そこをひとっ跳びに「愛しちゃった」と表現するのだから、当時の大衆は衝撃を食らったと思う。当時4歳の私も、打ちのめされたのだから。(笑)浜口は
ひたすら「愛」が好きなようで、「空に太陽がある限り(1971年)」でも連発して使っている。
余談だが、そんなロマンチストですぐに愛しちゃう浜口は、1973年、年齢差27歳の女優渚まゆみと再婚した(まゆみ29歳、庫之助56歳)。一方で、大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退したという
。どうやら、大正モダンは筋金入りであるとお見受けした。
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