Guitar Case 77

Guitar Case > 2009

森繁久弥の『知床旅情』

 2009年11月10日朝、俳優の森繁久弥さん(96)が永眠された。テレビや映画、舞台での活躍は、多くの人々の記憶に刻まれていることであろうが、私には「知床旅情」を歌ったシンガーソングライター森繁久弥の印象が強い。歌手が本業ではなく、決して歌唱力に優れているとは言えないが、氏の吟じる『知床旅情』をもう何十年も前に耳にした時、もう一つの歌い手としての在り方に目から鱗が落ちる思いだった。言い訳にするつもりはないが、「歌が下手でも、声が悪くても、人の心を揺さぶる歌い手としてのスタンスがあるんだ」と、今もわが心の支えにしているが、未だ森繁氏の境地には程遠い。

 そもそもこの歌は、森繁氏が1960年の映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床半島羅臼に長期滞在している間に作られ、その最終日に羅臼の人々への御礼とその名残惜しさをこめ、『さらば羅臼よ』という曲名で披露された。ちなみに、1962年の大晦日に放送された第13回NHK紅白歌合戦でも、森繁自身によって披露されている。その後、加藤登紀子がカヴァーをしてシングル売上げ140万枚の大ヒットとなり、多くの人々の耳には加藤登紀子の『知床旅情』が焼きついたことだろう。

 しかし、今一度、森繁氏自身の制作逸話をもってこの歌を聞かれたい。そうすると、加藤とは違った『知床旅情』が見えてくる。北の大地で寝食を共にして一つのものを作り上げたという充実感の中に、羅臼の人々への感謝や情、そして、スタッフや出演俳優との間に生まれた仲間意識など加わり、一気にこの歌を作らせたと想像する。実は、私たちにも、思春期の頃、青年期の頃、これに似たような思いを経験したことはないだろうか。曲を作らなくとも、別れのつらさや新たな旅立ちの高揚に、その気持ちの高ぶりを日記にしたためたり手紙として送ったり、そんな私自身の記憶がこの歌によって蘇ってくる。「そういえば、そんな類の高揚感も加齢と共にずいぶん遠ざかってしまったなあ」と、わが身を振り返りもする。森繁久弥の『知床旅情』を聞きながら、 今一度奮起せんと秋晴れの空を見上げる今日この頃である。

by くりんと

知床旅情  作詞・作曲:森繁久弥

知床の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば
遥か国後に 白夜は明ける

旅の情か 酔うほどに さまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
君を今宵こそ 抱きしめんと
岩かげに寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た 羅臼の村にも
君は出て行く 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれガラスさん
私を泣かすな 白いかもめを 

Guitar Case 76

Guitar Case > 2009

草食系男子と「熱中時間」

 近頃は、「草食系男子」と「肉食系男子」という言葉で世の男子を色分けするらしいが、少し前の「オタク」という言葉も近似語だろうか。
 一般には知る人の少ないツノゼミや冬虫夏草に熱中しているとか、海岸に漂着する物を拾い集めている人。また、あやとりに熱中している人や輪ゴム銃、ペン回し、はたまたマンホールに熱中している人など、人前で話すには少々はばかれるような奇趣味の持ち主を、私の場合、「草食系男子」という言葉に重ねてしまう。そして、そうした熱中人にスポットをあてたのがNHKの「熱中時間〜忙中“趣味”あり〜」という番組。この番組によって、何かしらの勇気を抱いた草食男子も多いのではないだろうか。

○ガチャガチャ熱中人○縄文時代熱中人○換気扇熱中人○マンガ間取り熱中人○たい焼き魚拓熱中人○トイレットペーパー収集熱中人○やまびこ熱中人○送電線鉄塔○低山登山熱中人○バッティングセンター熱中人○スコップ三味線熱中人○つり革熱中人○地下鉄の階段熱中人○やまびこ熱中人

 番組ホームページより一例を抜粋してみたが、世の中にたった一人の熱中人と奇異な目見られようともであっても、極めれば第一人者、TV番組によって時の人となりうるんだと思わず膝をたたく。小市民 な私などは、だれから言われたわけでもないのに、自分の興味や行動にもこれまでずいぶん自己規制をかけてきたように思う。これだと思ったら生半可な気持ちではなく、回り省みないほどの熱意と行動力も必要だ。そして、その成果を何かしらの方法で世に問うことも。オタクで終わるのか、それとも「熱中人」という学位まで取得するのか、「草食系男子」といえども男たる本懐を遂げたところである。


by くりんと

Guitar Case 75

Guitar Case > 2009

愛しあってるかい?ベイべ!

 忌野清志郎、享年58歳。こんなにかっこいい58歳がいただろうか。『ぼくの好きな先生』を歌っている映像から、デビュー当時の彼を知ることができるが、決して男前ではないし、容姿だけだと全くさえない。『い・け・な・いルージュマジック』を歌っていた頃の化粧やファッションも好きではなく、かえってとっつきにくかった。ところが、派手な衣装はさらに拍車をかけ、還暦前の顔に華美な化粧を施すいでたちは相変わらずなのに、今は超かっこいいと信望する。

 この10年の間に彼の歌をたくさん聞きこんだ。きっかけは、「パンク君が代」が物議をかもし出し、大手のレコード会社から発売を断られてインディーズで発表した時である。その時、当時のニュースステーションという番組に出演して、『空がまた暗くなる』を歌っているのを聞いたからだ。私が今まで聞いてきた岡林信康や高田渡、河島英五ではないプロテスト・ソング。むしろ、ジョン・レノンやボブ・ディランに近いかもしれない。
 そういえばある日、カー・ラジオから「♪天国はな〜い」という日本語歌詞のイマジンが流れてきた時にも衝撃を受けたが、彼のカバー曲だと後に知った。その『Covers』というアルバムのなかの原子力発電所に疑問を投げかけた1曲が原因で、これまた放送禁止となったため、覆面バンドTimersを結成。当時のTV番組「夜のヒットスタジオ」に生出演し、FM東京をミソカスになじったゲリラライブの映像にもたどりついた。もうこなったら、あらためてRCサクセション時代の曲から順に聞くしかない。
 そんな彼の作品は言うまでもなく、自身のゆるぎない信念と行動力、勇気とニュートラルな精神性にどっぷりはまり込んでいくことになる。すると、あのド派手なパフォーマンスがかっこよく見えてくる。最近のライブで『雨上がりの夜空に』歌うとき、身につけて登場するマント姿は何べんもくり返しDVDで見たものだ。ちなみに、派手な衣装はウィルソン・ピケットのスーツに倣って始めたもので、「愛しあってるかい?」は、オーティス・レディングから引用したもの。軽快な動きはジェイムス・ブラウンやミック・ジャガーの真似だった(2009年5月9日付朝日新聞「文化欄」から引用)というが、それら先達のスタイルを見事に消化して自分のスタイルとしている。

 そんな忌野も、ステージを下りるとやさしくシャイで温和な語り口調のお父さんだ。「青山ロックンロールショー」銘うったお別れ式の遺影には、ステージの忌野ではなく、スーツ姿の笑顔で家族思いの子煩悩な父子煩悩な栗原清志の写真が掲げられていたことがとても印象深い。
 幸か不幸か、私はまだ彼の作品をすべて聞いていない。ということは、彼はまだ、私に新曲を今しばらく提供してくれる。そして、私が50代になった時のお手本でもいてくれると言うわけだ。


by くりんと

Guitar Case 74

Guitar Case > 2009

平均律の限界

 NHK総合番組爆笑問題のニッポンの教養「あなたの知らないメロデイー」(2009年2月10日放送)で、九州大学芸術工学院教授兼作曲家の藤枝守氏が、「平均律」について興味深い話をされていた。要約するとこうだ。
 今私たちが耳にする音楽のほとんどは、「平均律」という音律がベースになっている。平均律とは、1オクターブの音の高さを、半音によって12等分したものである。その平均律 は、17世紀頃考え出された。そして、普及したのは19世紀以降で、平均律に基づいて作られたピアノが大量生産・消費されためであり、平均律がいつのまにか音楽演奏や作曲の基準とされきたが、その歴史は比較的浅いというわけだ。

 したがって、それ以前は平均律にとらわれない音律の音楽が世界各地にそれぞれの文化として存在していたし、今も伝承されている。例えば、三味線で唄う端唄・小唄、三線で唄う沖縄の島唄などはその好例。端唄・小唄にあらかじめ決まったキーはないし、自分の声に合わせた三味線のチューニングを行う。そして、その音律には、12の平均律に収まらない節回やこぶしがあり、色・艶とも表現される。薬師寺東塔の水煙に透かし彫りされ飛天が奏でる笛の音色は、もちろん平均律で は採譜できないだろう。また、鳥のさえずりや風の音、川のせせらぎに癒される時、それらを平均律の音楽で表現することはできない。
 ピアノの鍵盤と鍵盤の間にも無限の音律が存在するはずだが、いつしか私たちは12色のポスターカラーだけで描くことを覚えさせられ、赤にもいろんな赤色があることを知りながら、1つの赤だけで塗りつぶしてきた。つまり、ピアノで、平均律で奏でることのできる音楽は、最初から限界があるのだ。ただ、音楽のユニバーサル化、世界標準化としての役割・功績は大であったことに間違いはない。

 定期的にプロの手によって調律されるピアノやデジタル機器を用いてチューニングされるギターを日ごろ用いていると、平均律の呪縛からなかなか解き放たれない。しかし、縄文人が土笛で奏でた音色のようなそうした平均律の垣根の向こう側にある音楽こそ、人類が数千年前に楽器を手にして以来の本流であることを知り、目からうろこが落ちた瞬間であった。


by くりんと

Guitar Case 73

Guitar Case > 2009

『十九の春』

 『十九の春』という歌をご存知だろうか。60代以降の人にとっては、バタやんこと田端義夫のヒット曲としてよく知られている。 時に沖縄民謡という紹介もあるが、若い年代の人たちには今一つピンとこないかもしれない。私自身は、三味線を習っていた時に覚えた のだが、次の歌詞がとても気に入っている。

  私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした
  今さら離縁というならば もとの十九にしておくれ

  もとの十九にするならば 庭の枯木を見てごらん
  枯木に花が咲いたなら  十九にするのもやすけれど

 実はこの歌、プロの手による演歌でも沖縄の島歌でもなく、出所が今一


 

つ定かでない。しかも、同じメロディーに無数の歌詞がのせられて歌われてきた、謎の多い魅惑な歌なのである。そして、川井龍介著『「十九の春」を探して』という本に出会った。この著者によると、「十九の春」は奄美から沖縄にかけて一時期よく歌われたものだが、その音階から島唄ではなくヤマト唄だという。そして、以下の複数の所在にルーツを求めることができたが、結論として元うた及び作者は特定できていない。

○嘉義丸(かぎまる)のうた
 『沖縄ソングス〜わしたうた〜』という沖縄の歌を集めたオムニバスCDがあり、その中に奄美の島唄歌手である朝崎郁恵の「十九の春」が収められている。この朝崎の「あのうたは、私の父親がつくったうたとすごく似ている」という証言からたどりついたのが「嘉義丸のうた」。太平洋戦争中、奄美大島名瀬沖でアメリカ潜水艦によって沈められた貨客船が嘉義丸で、彼女の父はこの船の犠牲者の遺族から惨事のあらましを聞き、鎮魂のために作ったというのだ。のちに彼女は、自主制作でこのうたをCD化している。

○与論小唄
 明治時代に与論島から長崎や福岡に集団移住した人たちが媒介となって「ラッパ節」なる流行歌が加工されて与論島に伝わった。島では昔から日常生活にうたが根づいており、「野遊」あるいは「夜遊び」という若い男女の遊びの風習の中で、三味線を弾き簡単なメロディーに即興で歌詞を作って掛け合う「アシビンチュ」という歌垣のようなものがあった。こうした遊びの中でも「与論ラッパ節」が歌われ、やがて「与論小唄」も歌われたという。その後、70年代頃に与論の観光ブームに火がつき、民宿の親父たちが若い客に「与論小唄」を好んで歌ってあげたとも言う。

○失恋歌・悲恋歌
 石垣島に白保という地区があり、「十九の春」とメロディーが似ている「白保小唄」という歌もあったと言う。この白保の住民たちは、昔から新しい歌を取り入れるのが好きなようで、戦争に行って大和の人と交わっているなかで生まれたものもあるし、西表に炭鉱があって、そこで歌われていた本土の小唄なども取り入れて白保調にアレンジしてしまったものもあると言う。「白保小唄」は、「悲恋歌」や「失恋歌」ともよばれていたらしい。近くの鳩間島でも「悲恋歌」「失恋歌」は歌われていたと言う。

○ジュリグァー小唄
 女郎、遊女、娼妓といった意味で“ジュリ”という沖縄の言葉がある。コザ市(現・沖縄市)には、東京の風俗街の名前からとった通称吉原という売春街があり、こうしたところで働く女性の歌という意味で「ジュリグァー小唄」「吉原小唄」と呼ばれてきた歌がある。メロディーも歌詞も「十九の春」とほとんど同じである。

 この4つの歌のどれが「十九の春」の元うたなのか断定はできていないが、奄美や沖縄の人たちがいかに日常的に音楽と結びついた生活を営んできたかが、いずれのエピソードからも共通項として読み取れる。バタやんの「十九の春」より、むしろこうした読み人知らずの「十九の春」にこそ興味を覚えるし、曲名も「○○小唄」がよりふさわしいかもしれない。いろんな歌い手たちがカバーしてやまないこの曲に、私はむしろ「アシブンチュ」に仲間入りして歌ってみたいな〜。


by くりんと