つ定かでない。しかも、同じメロディーに無数の歌詞がのせられて歌われてきた、謎の多い魅惑な歌なのである。そして、川井龍介著『「十九の春」を探して』という本に出会った。この著者によると、「十九の春」は奄美から沖縄にかけて一時期よく歌われたものだが、その音階から島唄ではなくヤマト唄だという。そして、以下の複数の所在にルーツを求めることができたが、結論として元うた及び作者は特定できていない。
○嘉義丸(かぎまる)のうた
『沖縄ソングス〜わしたうた〜』という沖縄の歌を集めたオムニバスCDがあり、その中に奄美の島唄歌手である朝崎郁恵の「十九の春」が収められている。この朝崎の「あのうたは、私の父親がつくったうたとすごく似ている」という証言からたどりついたのが「嘉義丸のうた」。太平洋戦争中、奄美大島名瀬沖でアメリカ潜水艦によって沈められた貨客船が嘉義丸で、彼女の父はこの船の犠牲者の遺族から惨事のあらましを聞き、鎮魂のために作ったというのだ。のちに彼女は、自主制作でこのうたをCD化している。
○与論小唄
明治時代に与論島から長崎や福岡に集団移住した人たちが媒介となって「ラッパ節」なる流行歌が加工されて与論島に伝わった。島では昔から日常生活にうたが根づいており、「野遊」あるいは「夜遊び」という若い男女の遊びの風習の中で、三味線を弾き簡単なメロディーに即興で歌詞を作って掛け合う「アシビンチュ」という歌垣のようなものがあった。こうした遊びの中でも「与論ラッパ節」が歌われ、やがて「与論小唄」も歌われたという。その後、70年代頃に与論の観光ブームに火がつき、民宿の親父たちが若い客に「与論小唄」を好んで歌ってあげたとも言う。
○失恋歌・悲恋歌
石垣島に白保という地区があり、「十九の春」とメロディーが似ている「白保小唄」という歌もあったと言う。この白保の住民たちは、昔から新しい歌を取り入れるのが好きなようで、戦争に行って大和の人と交わっているなかで生まれたものもあるし、西表に炭鉱があって、そこで歌われていた本土の小唄なども取り入れて白保調にアレンジしてしまったものもあると言う。「白保小唄」は、「悲恋歌」や「失恋歌」ともよばれていたらしい。近くの鳩間島でも「悲恋歌」「失恋歌」は歌われていたと言う。
○ジュリグァー小唄
女郎、遊女、娼妓といった意味で“ジュリ”という沖縄の言葉がある。コザ市(現・沖縄市)には、東京の風俗街の名前からとった通称吉原という売春街があり、こうしたところで働く女性の歌という意味で「ジュリグァー小唄」「吉原小唄」と呼ばれてきた歌がある。メロディーも歌詞も「十九の春」とほとんど同じである。
この4つの歌のどれが「十九の春」の元うたなのか断定はできていないが、奄美や沖縄の人たちがいかに日常的に音楽と結びついた生活を営んできたかが、いずれのエピソードからも共通項として読み取れる。バタやんの「十九の春」より、むしろこうした読み人知らずの「十九の春」にこそ興味を覚えるし、曲名も「○○小唄」がよりふさわしいかもしれない。いろんな歌い手たちがカバーしてやまないこの曲に、私はむしろ「アシブンチュ」に仲間入りして歌ってみたいな〜。 |