Guitar Case 69

Guitar Case > 2007

宮崎駿『風の帰る場所』

渋谷陽一氏による映画監督宮崎駿への12年間にわたるインタビューをノーカットで収録された『風の帰る場所』を読んだ。
『となりのトトロ』や『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』といった作品がどういった土壌から生まれてきたのか、作者本人の言葉で知ることができる。
さて、その中でも宮崎駿御自身のエンターテイメント論が非常に興味深かったので、以下に引用したい。

―映画を作る拠り所は?
「自分が善良な人間だから善良な映画を作るんじゃないですよね。自分がくだらない人間だと思っているから()、善良な人間が出てくる映画を作りたいと思うんです」
「やっぱり人間みんな同じだよって言うんじゃなくてね、その善良なこととかですね、それから、やっぱりこれはあっていいことだとか、優れてる人がいるんじゃないかとか、自分の中じゃなくても、どっかにそういうものがあるんじゃないかとい思う気持ちがなかったら、とても映画を作れないわけですよ」
「それは、例えば、子供がある肯定的なものに作品の中で出会ったときに、こんな人いないよとか、こんな先生いないよとか、こんな親いないよって言っても、そのときに『いないよね』って一緒に言うんじゃなくて、『不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない』って僕は思うんですよ。なぜ思うんだかよくわからないんですけどね。それは1941年生まれのせいだとかね()、いろんなことでそんなイデオロギー暴露する人がいますけども。でも、やっぱり僕は自分がくだらなくても、くだらなくない人はいると思ってますから。だから、そこを拠り所にして映画を作ってますけどね」

―エンターテイメントの理想は?
「観終わった時に、実に『ああ、映画を観た!』って言うような()、そういう映画を作りたいですね。なんか本当にそれだけですよ。『ああ、お金を払って得した』とか『観に来てよかった』って言うような」
「ええそうです。そうだと思いますよ。それはつまりね、娯楽という言葉意味するところにもよるんだけど、『娯楽でいいんだよ、映画は』っていうのは嫌いです。でも、エンターテイメントって言うことを否定する気は全然ないです。エンターテイメントっていうのは何かって言ったら、間口が広いことですよ。敷居が低くて、だれでも入れるんですよ、入ろうと思えば。やっぱり(アンドレイ・)タコフスキーのやつなんて初めから入り口は狭いですよ。そう思うでしょう?」
「『誰でも入ってください』でやってないですよ。だけど、僕がチャップリンの映画が一番好きなのは、なんか間口が広いんだけど、入っていくうちにいつの間にか階段を昇っちゃうんですよね。なんかこう妙に清められた気持ちになったりね()。なんか厳粛な気持ちになったりね。するでしょう?」
「あれが僕は、やっぱりエンターテイメントの理想じゃないかと思うんです。あのー、特定の名前を出して、しょっちゅう問題を起こすんですけど・・・」
「あの、ディズニー作品で一番嫌なのは、僕は入り口と出口が同じだと思うんですよね。なんか『ああ、楽しかったな』って出てくるんですよ。入り口と同じように出口も敷居が低くて、同じように間口が広いんです」
「ディズニーのヒューマニズムの、あの偽者加減とかね、ああいうもんの作りものくささみたいなのがね。だから、やっぱりディズニーの最高の仕事というのはディズニーランドだったんだなっていうふうに思います。やっぱり好きじゃないですね。エンターテイメントっていうのは、観ているうちになんかいつの間にかこう壁が狭くなっててね、立ち止まって『うーん』って考えてね、『そうか、僕はこれで駄目だ』とかね()、そういうふうなのが理想だと思うんです。なんかこう・・・入り口の間口が広くて、敷居も低いんだけど、入っていったら出口がちょっと高くなってたっていう。壮絶に高くなることは無理ですよ、それは」

 ―宮崎駿映画には約束事が?
「でもねえ、それは例えば文楽を観に行ってね、突然くるっと太夫が席ごと回転して出てきて「うぎゃーあっ」とうなった途端にね、異世界へ入っちゃいますよ。文楽の約束事なんですよ」
「だって、そういうもんでしょう。音楽だって最初の音が鳴った途端にね、ふっとそっちに行くんでね」

ビートルズの音楽も、「ジャ〜ン」と鳴った最初の音でビートルズ・サウンドの世界に引きずり込まれ、初期の頃のアイドル的なバンドという「間口の広さ」から、中期以降のサージェント・ペッパーに代表されるような「出口の高さ」へと、いつの間にか導いてくれていた。
音楽(や芸術)をやる拠り所は、人それぞれだと思うが、いつの間にか見失ってしまった(どこかにしまいこんでしまった)ミュージシャンやアーティストも多い。
私たちはさしずめ、「ジャ〜ン」から。


by くりんと

Guitar Case 68

Guitar Case > 2007

母に捧げるロックン・ロール

60代半ばを過ぎた母が、少々おぼつかなくなった足元をかばいながら、何年かぶりかに一座のステージ(かげろう座2007)を見に来た。
そしてその夜、やや興奮気味に電話が入る。
「前よりだいぶうまくなったな。来年もまた見に行くのを楽しみに、1年がんばるわ。生きがいになったわ。」
年老いてやや気も弱くなったなと感じたが、「うまくなったな」の言葉は、どうやら全くのお世辞でもない。

実は、今回のステージの後、「今日の一座聞いたけど、ようなったんと違う」といったコメントをギターリストのTACOちゃんからいただいた。
久ぶりに再会したアメリカ人の友人ブーマーからも、「4年前と全然違うよ」と賞賛の言葉。
私たちなりに、そうした手ごたえがきちんとした形にはなっていないものの、確実に階段を上ってきているという自負はある。
こうした反応の延長線上に、私の母の感想ものせることができるとするならば、このステージで言葉通り母にも元気を与えることができたのではないだろうか。
何百人、何千人の人々に元気を与え、元気をもらうステージはミュージシャンの冥利ではあるが、目の前の母を勇気付けたことに 、これ以上の冥利はないのではないか。

もっともっとうまくなってやろう。
もっともっとロックン・ロール。
もっともっとエンヤトット!


by くりんと

Guitar Case 67

Guitar Case > 2007

武士の一分

 山田洋次監督の時代劇『たそがれ清兵衛』『隠し剣鬼の爪』に次ぐ3部作の最終章、そして、木村拓也主演という話題性も伴って、この正月是非見たかったのが映画『武士の一分』。原作は藤沢周平の『盲目剣谺返し』(『隠し剣秋風抄』文春文庫刊)によるものだが、原作には出てこないこの映画のタイトル「一分(いちぶん)」とは何という意味なのか?思わず辞書を引いてしまったが、「一身の面目。一人前の人間としての名誉。体面。」と見つけることができた。劇中では切る方にも切られるほうにも「一分」につながる行動が見られ、見ている側にもこの言葉が後々ボディブローのように効いてくる。

「テレビでは見られない木村拓也を見せる」演出というのが山田監督の言葉だが、私の周りでは賛否両論。この映画でキムタクは、洒落っけがあって子ども好きで、しかし妻を寝取られるというやや間の抜けた2.5枚目を演じている。彼演ずる三村新之丞の洒落っけは、妻の加世や付き人の徳平に「あほじゃのう」という口癖と共に向けられるが、妻を寝取られ刃傷沙汰に至った結末に、「知らなかった(あほな)方が幸せなのか、いやいやそうではないだろう」という言葉で結ばれるところが、ことさら意味深い。

山田監督の時代劇3部作が「父娘の愛」「男女の愛」「夫婦の愛」を順に描いているとはいえ、男を主軸とした展開になっている。『たそがれ清兵衛』では、命をかけた藩命を終え重傷を負いながらやっと帰宅したわが家に、まさかの朋江(役・宮沢りえ)が待つ。また、『武士の一分』では、妻を追い出したことを後悔する新之丞のもとに、使用人徳兵の計らいで妻加世(役・壇れい)が飯炊き女として舞い戻り、新之丞の飯を炊き始める。いずれも、世の男にとっては「これだ!」という夢のようなオチ(エンディング)であるが、ただ女性にはあまり面白くない展開かもしれない。「この映画は面白くなかった」という人の理由の1つは、こういったところにもあるかもしれない。

話は少し変わるが、先日テレビで『Shall We Dance?』のハリウッド・リメイク版を見た。周防監督の映画『Shall We ダンス?』で登場するダンス狂の青木富夫(役・竹中直人)やオバサンダンサーの高橋豊子(役・渡辺えり子)といったキャラクターはリメイク版でも再現され、全体のストーリーもほぼ原作に忠実である。しかし、オチが異なる。原作では、海外に旅立つ岸川舞(役・草刈民代)のサヨナラ・ダンスパーティーへの招待に、主演の杉山正平(役・役所広司)は拒み、迷い、遅刻しながら、結局ラスト・パートナーの座を手にする。しかしリメイク版では、(主演のリチャード・ギアは)デパートで働く妻のもとにまず現れ、その妻を伴ってサヨナラ・ダンスパーティー会場に到着する。そして最後は、妻と共に踊るシーンで幕を閉じる。このエンディングにこそハリウッド映画の真骨頂が表れている。

『武士の一分』でも、新之丞(キムタク)は妻加世を迎えに行かなければなるまい。そうでないとこのご時勢、世の女性の支持は得られない。ただ一方で、世の男性の支持は半減することだろう。もちろん私は、原作支持派!

by くりんと

Guitar Case 66

Guitar Case > 2007

硫黄島からの手紙

  太平洋戦争における硫黄島での戦いを、クリント・イーストウッド監督は日米双方の視点から描こうとして、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の2部作を手がけ自らメガホンをとった。この正月、日本側の視点で描かれた『硫黄島からの手紙』の方を見た。

 私自身、この映画を見る前から、ささやかな親しみを抱いていた。1つは、監督がクリント・イーストウッドであること。私のニックネーム「くりんと」は、ある先輩によってネーミングされたものだが、私の姓「東林」をEastwoodと訳したところからきている。もう1つは、この映画の主


 

人公である「栗林忠道中将」。こちらも私の姓「東林」にまつわることだが、この姓は意外と珍しく、電話番号登録している「東林」さんは全国で55世帯しかないそうだ(静岡大学人文学部言語文化学科比較言語文化コース言語学分野城岡研究室データベースより)。普段目にしない姓のせいか、いろんなところでいろんな読み違えをしていただくのだが、多いのが「東海林」さんに「栗林」さん。というわけで、「栗林」さんが全く他人とは思えない私「東林」である。

 さて、その本物のクリント監督によると、この映画を次のように紹介している。「私が観て育った戦争映画の多くは、どちらかが正義で、どちらかが悪だと描いていました。しかし、人生も戦争も、そういうものではないのです。私の2本の映画も勝ち負けを描いたものではありません。戦争が人間に与える影響、ほんとうならもっと生きられたであろう人々に与えた影響を描いています。どちらの側であっても、戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在です。だから、この2本の映画は彼らに対する私のトリビュートなのです。」(映画『硫黄島からの手紙』Official Websiteより)

恥ずかしながら、私自身、この映画を見るまで「硫黄島の戦い」の悲惨さを知らなかった。栗林忠道中将の人となりやロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルをとった西竹一の逸話なども知らなかった。今回この映画を見て、アメリカ人(のクリント氏)から、この戦争を教えていただくという始末である。

  『硫黄島からの手紙』では、栗林忠道という人間に興味を持った。長野県出身の彼は、陸軍士官学校に進み陸軍大学校を卒業、アメリカとカナダの駐在経験があり、陸軍の中では珍しい米国通だったといわれている。陸軍中将まで上りつめたエリート中のエリートが、間近に迫った沖縄戦や本土決戦の前の「捨て石」となる覚悟で、総司令官として硫黄島に赴任する。彼の経歴の中の汚点を探せば、「昭和194月師団厨房で起きた失火の責任を取り、師団長を辞す。東部軍司令部付」というのを見つけることができるが、その2ヵ月後に硫黄島に着任している。このことが直接関係あるのかどうかは知らないが、「捨て石」というくじを引かされたその過程においていかなる紆余曲折があったのか、彼の生き方や人となりが推し量られる。

 陸海軍に関らず、欧米の駐在経験があった軍人たちの多くは、アメリカの国力を目の当たりにして一応に日米開戦に反対だったと聞く。彼も親米派であり同じ考えをもっていたようだ。しかも、欧米の合理主義が彼の信条と重なり、硫黄島に赴任してからは島をくまなく歩いて、用意周到な大規模地下陣地を計画・構築する。そして、万歳突撃による玉砕や自決、上官による部下への無意味な制裁を禁じて将兵のいたずらな消耗を避け、徹底的な持久戦を行う。当時の陸軍の万歳玉砕を潔しとする“不合理”な美徳の中では、こうした彼の作戦上の合理主義も、部下である将校たちからは疎まれる存在にもなっていく。

ただ、彼も生粋の軍人である。駐米時代の映画の中の1シーンで、アメリカの友人から「日米間で開戦になればどうするか」とたずねられ、きっぱりと「国のために戦う」と答える。硫黄島戦末期、味方の補給路が絶たれ弾薬なく水枯れた時点で、最後の総攻撃を決断する。ただしこの突撃は、いわゆる万歳突撃の形を取らず、隠密に敵陣に近づき敵側の油断を突いたゲリラ戦に近い戦法を取り、予期していなかったアメリカ軍に対して大打撃を与える。先の言葉通り、やはり彼は軍人だった。

  彼の人柄を推し量れるものに、駐米時代や硫黄島着任当時に子息に書き送った手紙もある。アメリカから書かれたものは、当時長男が幼かったためかイラスト入りの絵手紙となっている。これらの手紙は戦後に「『玉砕総指揮官』の絵手紙」(小学館文庫)として刊行されているが、映画中の栗林の手紙は、これに基づいているそうだ。劇中、爆撃の振動がなりやまぬ地下要塞の中で、紙と筆をとり絵を描いている姿は、司令官らしからぬ光景で違和感を持ったが、まさに監督の描きたかった1シーンなのかもしれない。

  クリント監督のいうトリビュートは、渡辺謙演ずる栗林忠道を指すだけでなく、バロン西(伊原剛志)や西郷昇陸軍一等兵(二宮和也)たちにも向けられていることは言うまでもない。この時代の中でのそれぞれの「生」を全うした人たちの生き様を胸に刻み、私たちの時代の中での「生」を全うしたいと、私の年頭所感となった。

by くりんと

Guitar Case 65

Guitar Case > 2007

おもひでぽろぽろ

 スタジオジプリ制作1991年公開の『おもひでぽろぽろ』(監督 高畑勲)を見た。

  時は1982年、27歳のOLタエ子が山形の義兄の実家へと一人旅し、そのさなかにかつて小学校5年生だったころの自分を回想していく。

○クラスからつまはじきにされ転校していった男の子から投げられた言葉「お前には握手してやらないぞ」
○クラスの劇で与えられた役に物足りず、自分で役作りをして演じたのが好評を得、大人の劇団に誘われたのだが父の許しが出ず断念したこと
○女子の体の成長のことで男子とぶつかったこと
○隣のクラスの男子から告白を投げかけられたのに受けとめ方がわからなかった私
○初めてもたらされたパイナップルを消化できなかったわが家
○おばあちゃんとの温泉旅行も散々に終わりつまらなかった夏休み
○家族とのお出かけの時姉との確執が引き金となり、父に殴られたうえ置いてきぼりになったこと

  これらは、タエ子にとって未解決な心のしこりとして、27歳のOLになった今もやわらかに引きずっている。そして、女性として生きる今、あの頃とそんなにかわりない自分がいる。

 都はるみが歌うベット・ミドラーの『ローズ』を翻訳したエンディング・テーマ。その一節に、以下の歌詞がある。

「くじけるのを恐れて踊らない君の心」
「覚めるのを恐れてチャンス逃がす君の夢」
「奪われるのがいやさに与えない心」
「死ぬのを恐れて生きることができない」

 そう、10歳の時から、「川」を渡ろうとしない、渡る勇気のない、渡ったときのすがすがしさを知らないタエ子がずっといたのだ。今回の長期休暇も、27歳になってまだ結婚しないのかというまわりの言葉をかわしながら、興味を抱いた農業に没頭するものの、そこで暮らしながら農業と向かう 「覚悟」なんて全くなかった。それが、おばあちゃんの「トシオとの結婚を考えてくれ」という唐突な言葉で気づかされ、5年生の時のなかまに促されるようにしてついに「川」を渡る。

 こうしたタエ子には、男女問わず多くの20代あるいは30代の人間が共感できるのではないだろうか。私もいったいどれほどの「川」を渡ったものか、 また、「覚悟」を決めた決断をしてきたのだろうかと、都はるみの『ローズ』を聴く。

by くりんと