Guitar Case 60

Guitar Case > 2005

髭とサングラス

 

男が髭をはやすのは、コンプレックスの表れらしい。
強く見せたい時に、また強く見せる必要がある人は、髭をはやす。
(参照:『人は見た目が9割』竹内一郎・著/新潮新書)
そういえば、戦国武将に髭をはやした肖像画が多い。
イチローがメジャーに挑戦し始めてから、無精髭をはやし武骨さをかもし出したのは、大男たちの中で戦う演出の1つだろう。
アラブ社会に立派な髭をたくわえた男性が多いのは、実は女性より弱いのかもしれない。
ちなみに、髪の毛がさみしくなってきた人に、髭をはやし始める人も多い。

髭をはやすもう1つのスタイルとして、「俺は自由人なんだ」「私は芸術(芸能)関係に携わる人間なんだ」というメッセージもある。
よく似たケースとして、一頃流行った長い髪を後ろで束ねている男性の場合も、これとよく似ている。
サラリーマンの中に髭をはやしている人がいれば、おそらくライフスタイルや趣味の主張であろう。
「今はサラリーマンだが、これは仮の姿なんだよ」と。

さて、芸能人には、普段サングラスをかける人が多い。
これは、私人に返った時のプライバシーを守るため、変装の道具として携帯しているのだろう。
しかし、一般人にとっての街頭でのサングラスは、ファッションであり自由人や芸能関係者を装う小道具でもある。
目は口ほどにものを言う。
その目の動きを隠すことによって、透明人間になった錯覚をおぼえ、幾分大胆な振る舞いができるようになる。
サングラスをかけたとたん、ウルトラセブンに変身し、怪獣に立ち向かえるのだ。

私は、ステージに立つとき、髭をはやしていたり、サングラスをかけたりする。
ステージの上ではほんとは自信がなく、何かしらの力を借りたいのかもしれない。
一方で、何週間も前から髭を伸ばし始めることによって、自分の中の「役づくり」も行っている。
また、ステージ上の「非日常」も演出したいと思っている。

確かな力がついてくれば、小道具は必要ない。
サングラスをかけずとも、髪の毛を逆立てずとも、普段着がステージ衣装となる。
桑田佳祐という名前が、もはやステージ衣装なのだ。

ステージ上の髭もサングラスも、今の私の力の証。
そして、大切なウルトラアイ。
しかも、頭のてっぺんが少しさみしくなってきたときている。

by くりんと

Guitar Case 59

Guitar Case > 2005

たこ焼き屋の「信頼」

 

たまたま通りがかった屋台のたこ焼き屋が、美味しそうに焼いていたので、買って帰った。
お腹もすいていたし缶ビールを片手に食べたら結構いけた。
味をしめて、後日、同じたこ焼き屋のを買って帰ったが、よく焼けていなくて美味しくなかった。
前回は忙しかったのだろうと、三度買って帰ったが、タコも小さくやっぱり美味しくなかった。
もう2度と行くまい。

こうした経験は、大なり小なりあると思うが、このたこ焼き屋、恐らく長続きしないだろう。
しかし、流行っているたこ焼き屋はちがう。
夏でも冬でも、忙しくてもそうでなくても、若い女性がお客でもオッサンがお客でも、つまりいつだれが買っても「同じ品質の商品」を提供し、裏切らない。

私自身、この秋、某電機メーカーの電子レンジ製造ラインに1ヶ月間携わった。
人件費の安い外国製品との競争に負けないよう徹底したコスト削減と効率の向上に日々努力しているが、何万台作っても、だれが作っても、いつ作っても「均一の品質」であるべきことには、一番のエネルギーが注がれている。
それはつまり、これまで支持してくれた○○ブランドに対しての「信頼」を裏切らないことでもある。

バンドにも同じことが言える。
プロであるなしにかかわらず、意識の高いバンドは裏切らない。
その味が好みかどうかは聴衆が決めることであって、歌い手は、どんな環境、どんな会場、どんな聴衆、どんな体調であろうとも、いつも確かな「品質」の維持に努める。

一方、作り手の資本(バンドの力量)によって、その「品質」を維持しながら提供できる「日産個数(1回のステージ時間)」というのもある。
その場の売り上げだけに目をやり、身の程をわきまえないと、先のたこ焼き屋と同じ道を歩むことになる。
目下、私たちの課題!

by くりんと

Guitar Case 58

Guitar Case > 2005

アーティスト冥利

 

10月の終わり、蹴鞠で有名なとある神社に出かけた。
紅葉には少しばかり早かったが、もう1つ、知り合いが勤める近くのホテルを訪れたいという目的があった。
実は、 知り合いの縁で、そのホテルの支配人をされている方に、CD『六根清浄』を買っていただいている。
今回、その方とは初対面。
しかし、私のWebページ“吉野・大峰フィールドノート”もよくご覧いただいているようで、ひとしきりのあいさつのあと、一座の話から山野草や野鳥、山登りへと話題も転じ、あっという間の1時間が過ぎた。
決して初めてお会いするとは思えないあたたかさを、重ねて頂戴する。

その支配人、胸ポケットからおもむろに四つ折りにしたA4の上質紙を取り出し、「ここに“六根清浄”の歌詞 を印刷したものがあるんですがね、いつも持ち歩いているんですよ」と微笑まれる。
特に4番の歌詞がお気に入りのようで、「私(支配人)の心境をぴったり言い当てている」ということらしい。

 4  20・30と突っ走り 浮世じゃその名もちょいと知られたが 
    六尺の身も山に抱かれりゃ 狐か狸か子鼠か 
    身の丈ほどの書に埋もれて 頭でっかち気取ってみても
    星の名花の名今もって知らず ガキに戻って山歩く 
 
    懺悔 懺悔 六根清浄 懺悔 懺悔 六根清浄

一座の歌 にラブ・ソングは少なく、人生訓を説いたような理屈っぽい歌が多いのがメジャー・デビューを果たせない原因かなと、振り返るこの頃。(笑)
しかし、 こうしてここに、私たちの歌詞を大切に、胸にあたためておられる方にお会いすることができた。
このことは、何ごとにも換え難い「アーティスト冥利」であり、エネルギーへと転化されていく。
すごく大きなお土産をいただいて、夕暮れの山道を軽やかに下る。
もののふ多き峰を望み、しばし 合掌!

by くりんと

Guitar Case 57

Guitar Case > 2005

一座TV出演の理由?

 

エンヤトット一座の音楽的(商品)価値はひとまずおいておいて、「マスコミ的(商品)価値」はどこにあるのだろう?
これまでも何度か新聞取材を受けたが、今回はテレビ取材の依頼がやってきた!
これまでの新聞取材において、私たちエンヤトット一座の扱われ方は、だいたい1つのパターンがある。
それは、私たちにとって本意ではない扱われ方のなので、ここでの紹介は避けるが、今回のテレビ取材も、半ばそのパターンだろうなと覚悟を決めていた。

ところが、事前打ち合わせを終えてわかったのだが、取材スタッフがたどってきた糸というのは、次の2点。
☆エンヤトット一座って、なにもんだ?(ネーミングの摩訶不思議さ。)
☆どうやらいろんな民族楽器を扱って、おもしろい音楽をやってるらしい。
(視聴者から「○○を調べよ!」という依頼があって、動き出す番組らしいが、確か他局にもそんな番組があったなあ!)

「そんなんで番組になるの?」と、こちらが心配する次第で、しかも、撮影場所はいつもの一座練習スタジオ。(カラオケハウスに使っていたコンテナを、2つ連結して作った専用スタジオが、メンバーの西條氏の工房の一画にある。)
近いうちにライブもあったので、「そうしたシーンを撮った方が絵になるのではないですか」とも返したが、結局、向こうの都合もあって、取材場所と日時は動かなかった。

○テレビ局:奈良テレビ
○番組名:街かどウォッチャー
(毎週土曜午後6:15〜6:30放映)
○司会進行:磯部公彦(まるむし商店)、佐々木ひろみ
○放映日:2005年6月4日
「これが日本のリズムだ! エンヤトット一座って何?」
(事前打合:4月26日、取材・撮影日:5月11日)

今回のテレビ取材では、エンヤトット一座というバンドのスタンスに、音楽に、スポットをあててくださった。
いくらかバラエティーっぽい編集で、『六根清浄』『大和五條の空の下』の2曲の音質のクォリティーに不満は残るものの、私たちがやろうとしているアクションに寄り添い視聴者に伝ようとしてくれ ていた。
それは、歌詞の字幕スーパー入りにも現れている。

最後になりましたが、ラッセーラさん(橿原市)とは面識はございませぬが、この場をお借りして御礼申し上げます。

by くりんと

Guitar Case 56

Guitar Case > 2005

アイビーよ永遠なれ

 

1960年代、米国東部の名門私大生(アイビーリーガー)のファッションであるアイビールックが流行し、VANのブランドものを着こなして銀座に集まる若者たちは「みゆき族」とも呼ばれた。
そのヴァンジャケットを1955年に設立し、国内初のアメリカンフットボールチームを作るなど若者のライフスタイルや文化に大きな影響を与え、「メンズファッションの神様」とも言われた石津謙介氏が、93歳(2005年5月24日)で亡くなった。
ヴァンジャケットは拡大路線がたたって78年に倒産するが、氏は服飾評論やファッションプロデューサーとして、その後も活動していた。

私は、80年代に到来した第2次アイビーブームの世代。
漫才ブームで一世風靡したザ・ぼんちの二人をはじめ、MEN'S CLUBやPOPEYといったファッション雑誌も、こぞってアイビーファッションに火を付けた。
そうした中で、石津謙介氏の存在を知り、くろすとしゆき氏や小林泰彦氏の服飾評論を読みあさっては、キャンパスを闊歩していた自分を懐かしむ。
ヴァンジャケットは倒産してなかったが、その頃心斎橋と神戸にVANブランドのお店も復活した。
私はJ.PRESSやBROOK'S BROTHERS、L.L.Bean派で、今でもボタンダウンにチノパン、3釦段返りのジャケットは定番のコスチューム。
学生時代に染み込んだアイビールックは、何十年たっても支配し続けている。
というわけで、私にとっても石津氏は神様であった。

ちなみに武勇伝になりますが、私、MEN'S CLUB(247)の『街のアイビーリーガー』にも掲載された、筋金入りであります。

by くりんと

Guitar Case 55

Guitar Case > 2005

タカダワタル的お別れ

 

「4月16日未明、高田渡さんが天に上った」と、NHKをはじめ各メディアが報じた。
4月3日に北海道・白糠(しらぬか)町のライブ後に倒れ、救急車で釧路市の病院に運ばれていたらしい。
56歳。
そして、新聞等は、高田さんの略歴を以下のように付け加えている。

「自衛隊に入ろう」「自転車にのって」などで知られるフォーク歌手、高田渡さんは昭和44年にデビュー。
岡林信康さんらと関西フォークの中心的存在となって初期のフォークシーンを支え、加川良、友部正人、なぎら健壱ら多くのフォークシンガーに影響を与えた。
時事的な話題を皮肉った反逆性や批評精神に富んだ作風と、ヒゲを生やした仙人のような風貌で、「日本の吟遊詩人」「フォークのカリスマ」などのあだ名で親しまれ、人気に。また、ステージ上で突然、「ゴー」といびきをかいて寝てしまうなど、気負いのない風来坊のような姿が印象的だった。
                                             (サンケイスポーツより抜粋)

先日より、西岡恭蔵&クロちゃんをしのぶ追悼ライブのビデオを、MDに編集して聴いていた。
そのステージで、 高田渡は、中川イサトのギター、息子漣のスチールギターをバックに、いつものいい感じで歌ってたのに、こんなに早く、今度は彼が追悼される番になるとは...。
最後まで、歌い続けていたのは、せめてもの彼の本望か。
実は、エンヤトット一座も、2度ほど高田渡ライブを主催しながら前座をつとめた(1996,1998年)縁がある。
スチールギターをやってるタコさんの紹介で、五條に来ていただき、彼の音楽スタイルを間近に拝見させていただくと共に、寿司をつまみながら昨今のフォーク事情を聞かせていただいた。
ライブ前に、トイレで隣り合わせになり、あまり意味のない会話でその場を取り繕ったのも、彼の人柄として思い起こされる。

最近では、NHKなどがドキュメンタリーとして、彼の生き方を追いかけた番組を制作していたが、なかでも沖縄出身の詩人山之口獏さんとの係りは、非常に興味深い。
「生活の柄」「鮪に鰯」「結婚」などの曲に象徴されるように、山之口獏の詩は高田渡の作風の柱の1つとなっている。
先の番組によると、山之口獏さんは東京という大都会の生活の中では、沖縄出身であることを隠していたようだ。
60年代、70年代では、まだまだ「島差別」みたいなものを感じられていたのかもしれないが、そんな中で時事的な世相を風刺した詩は、いわば元禄の世の川柳や狂歌にも似ている。
高田渡は、そんな詩を好んだ。
何気ない日常を歌った。
人間を歌った。
こうした彼の生き方、歌い方は、90年に入って再び、人気を呼び起こした。
そして、2004年には、150日間密着撮影したドキュメンタリー映画『タカダワタル的』(タナダユキ監督)が公開される。

セカンド・アルバム『系図』の中に収められている「告別式」。
今、聞きなおしてみると、いかにもタカダワタル的。
歩き疲れて、夜空と陸の隙間にもぐり込み、所かまわず寝こんだだけのこと。
彼には、この世もあの世もないのかもしれない。

by くりんと

告別式  詞:山之口獏

お金ばかりを 借りて
歩き まわっているうちに
ぼくは ある日 
死んで しまったのだ
奴も とうとう死んでしまったのかと
人々は そう 言いながら
煙を立てに来て
次々に挨拶しては
僕の前を立ち去った

こうしてあの世に 来てみると
そこには ぼくの オヤジがいて 
むくれた顔して 待っているのだ
なにを そんなに
むっとしているのだと聞くと
お盆になっても 家からの
ごちそうがなかったと
すねているのだ

ぼくは ぼくのこのオヤジの
頭をなでてやったのだが
仏に なったものまでも
お金のかかることを
ほしがるのかと思うと
地球の上で生きてるのと
同じみたいで
あの世も
この世も ないみたいなのだ

お金ばかりを借りて
歩き まわっているうちに
ぼくは ある日 
死んで しまったのだ
生活の柄    詞:山之口獏
 
歩き疲れては 夜空と陸との 
隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです 
所かまわず寝たのです
歩き 疲れては 
草にうもれて寝たのです 
歩き疲れ 寝たのですが 
眠れないのです

近ごろは眠れない
陸をひいては眠れない
夜空の下では眠れない 
ゆり起こされては眠れない
歩き 疲れては 
草にうもれて 寝たのです 
歩き疲れ 寝たのですが 
眠れないのです

そんな僕の生活の柄が 
夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと寝たかと思うと 
またも冷気にからかわれて
秋は 秋は 浮浪者のままでは眠れない 
秋は 秋からは 
浮浪者のままでは眠れない

歩き疲れては 夜空と陸との 
隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです 
所かまわず寝たので


 
Guitar Case 54

Guitar Case > 2005

発露の間

 

現在、吉野山金峯山寺では、ユネスコ世界遺産の登録を記念して、 蔵王堂の秘仏金剛蔵王大権現を公開している。(平成16年7月1日〜平成17年6月30日)
その蔵王大権現の御前で、それぞれの心の内を打ち明け、懺悔するための 『発露の間』 が設けられている。
通常、内陣は、得度し僧籍を持つもの以外の入堂は許されていないが、このたびは、ここで心静かに対座し、ご本尊の『恕の心』ですべてを許されるというわけだ。

さて、この蔵王大権現 の御前での懺悔は、この機会を逃すと、今後のご開帳は未定と聞くから(約60年に一度の檜皮葺き替え時にのみ一般公開される)、日常的にできるものではない。
しかし、私たちはそれぞれ、個々の 『発露の間』 を、経験的に見つけているのではないだろうか。
それは、とっておきの場所であるかもしれないし、トイレの中かもしれない。
また、この人の御前ならということでもいい。
(ちなみに、CD『六根清浄』の中の♪蔵王権現は、そういったことを題材にした曲である。)

私の 『発露の間』の1つである、天河大辨財天社(吉野郡天川村)。
ここにも、60年に一度しか御開帳しないという弁財天が納めらている。
芸能の神様でもあるこの弁財天の社にむかって、総檜造りの能舞台が設けられており、各界からの参拝者も多いと聞く。
私の友だちの家が、この神社の氏子 で、その筋の情報によると、長渕剛が志穂美悦子を通じて、この神社をよく参拝し、二人の結婚式もここで挙げ、確か子供の命名もここで行ったとか。
また、ひところ、 この神社の杜から、歌声が聞こえてくるなと思ったら、長渕が弁才天の社に向かって、一人弾き語りをして歌を奉納していたという話も、十数年前に聞いた。
当時、この神社の大掛かりな改築があって、盛大な落成のセレモニーが執り行われたときも、長渕はヘリコプターでやってきて(氏子ぐらいにしか知らされていなかった)、何曲か奉納していたの を、私も見た。
まさに、(当時の?)彼にとっても 、この神社は『発露の間』だったのかもしれない。

先日、私は、大峰山系を目の前に望むことのできる、もう一つの 『発露の間』に出かけてきた。
3月と4月は、別れと出会いの季節でもあるが、ここにキャンプ用のテーブルと椅子を置き、半日ゆったりと過ごしながら、この数年を振り返るつもりであった。
弁財天の御前で奉納するには、未だ芸も整っていないが、この日は、山や雲、木々や野鳥を聴衆に、やがてギターを持ち込んで歌ってみた。
それが、とても気持ちよく、たった一人なのに、妙にテンションがあがり、涙管がゆるむ。
こんなステージもあったんだ!
この日見つけた、私の新しい発露のスタイル。

by くりんと

Guitar Case 53

Guitar Case > 2005

ハイサイ!まちだ屋さん

 

沖縄読谷村<むら咲きむら>内にある「かんから三線工房“まちだ屋”」さんを、2年ぶりに訪ねた。
こちらでかんから三線作りをお世話になって以来、店長さん(当時)とメールの交換をさせていただいているが、実はまだ、お会いしたことがない。
なのに、まるで古くからの友人のような親しみを、(一方的に)抱かせていただき、2本目のかんから三線をお世話になったり、沖縄音楽情報を教わったり、また、今回はライブハウス・チャクラもお薦めいただいたり。
したがって、このたびは、初めてお目にかかるというお楽しみ。
幕末の志士たちは、確かこのような出会いを楽しみ、親交を深めたとか聞くが、沖縄と大和という距離が、この場合タイムスリップさせてくれたのかもしれない。

さて、わくわくしながら“まちだ屋”さんのお店に着くと、 店頭には、すでに、私たちを歓迎するたて看板。(どうも、VIP待遇らしい?)
ひとしきり従業員の方とごあいさつをすますと、どこからか聞き覚えのBGMが。
「あれっ、俺の曲やないか!」
エンヤトット一座のCD『六根清浄』でお出迎えしてくださるとは、なんと心にくい演出か。
この沖縄の地で、我ら大和のサウンドが流れているという心地よい違和感に、深い感動を覚える。

私の仲間も今日の日を心待ちにしており、早速、かんから三線の製作にいそしむ。
店内には、かんから三線を愛好するミュージシャンのサイン数々。
そうしているうちに、バンドカラーの白いシャツに身をまとった宗朝さんが(現在は、店長でないらしい)、姿を見せてくださった。
握手を交わした後、あとは息をつく間もなく、さて何を話したことだろう。
かんから三線のこと、お仕事のこと、音楽のこと、家族のこと、沖縄のこと、大和のこと、エンヤトット一座のこと...。
その合間には、工房も見せていただき、かんから三線にたどり着いた経緯なども聞かせていただいた。
お互いの熱い思いが、いろんな話題に転じ、あっという間の1時間。
かんから三線を作り終えた私の仲間は、♪安里屋ユンタの練習を始めていた。

Netの普及によって、沖縄と大和の距離も感じさせなくなったのは時代だし、その一方で、直接握手を交わしてこそ伝わるぬくもりという普遍もある。
沖縄という懐は深い。
私の方位磁石、しばらく南西を指すことだろう

by くりんと    


お店の前にはご一行歓迎の立て看板

私の仲間もさっそく三線作りにはまる

名だたるミュージシャンのサイン数々

製作後は安里屋ユンタの演奏指導

お店の前には巨大三線オブジェ

 

【後日談】
三線ショップのまちだ屋さんから、「カンカラ三線の歴史」を知るに興味深い 映像を紹介していただいた。
カンカラ三線については、以前にも紹介したが、あらためてまちだ屋さんのページから、以下引用。

カンカラ三線は、戦前(第二次世界大戦前)の沖縄では、こどもたちがクバ(ヤシ科)の葉の堅いところを棹に使い、胴の部分を空き缶、弦を麻の皮の繊維をひねって作り、遊んだのが始まりで、音はあまり出なかったそうです。
それから沖縄では、戦争でいろんな物を失ったが今の金武町屋喜の捕虜収容所において棹は、米軍の野戦用ベットの廃材、胴の部分は米軍支給の空き缶、弦はパラシュ−トの紐や電話線を使い、戦前のカンカラ三線がよみがえったのである。
音楽の原点は、まさに楽しむことだと思う。
当時の収容所の映像を観た時には、まさに生きる、楽しむ原点を観ました。
太鼓はジープの燃料タンクを叩き、カンカラサンシンを弾いて唄っている様子を見て、とても捕虜収容所の中には見えませんでした。

この文面の「太鼓はジープの燃料タンクを叩き、カンカラサンシンを弾いて唄っている様子を見て、とても捕虜収容所の中には見えませんでした。」という下りの映像である。

  沖縄デジタルアーカイヴ「Wonder沖縄」 > 芸能  > 琉球古典音楽 > 動画・音声ギャラリー
  > 「歌三線の歴史」  > 現代沖縄音楽

by くりんと


カンカラ三線工房 まちだ屋  TEL:098-958-4644 http://www.okinawa2.com/
むら咲きむら内(沖縄県中頭郡読谷村字高志保1020-1) http://www.murasakimura.com/index.shtml

Guitar Case 52

Guitar Case > 2005

喜納昌吉とチャクラ

 

そう言えば、喜納昌吉は、2004年の参議院議員選挙で民主党比例代表選出の参議院議員になったんだっけ。
これまでの彼の運動や言動から、はたして“民主党”の枠におさまる人なのかどうか疑問だが、国会議員になったがゆえにできることもあるだろうから、私はひとまず応援します。

さて、2004年のクリスマスの日(25日)に、那覇に滞在することになった。
楽しみは、県庁付近の居酒屋で泡盛と沖縄料理に舌鼓をうって、2次会は国際通りの民謡酒場と目星をつけた。
沖縄は、今回で2度目とほとんど不案内なので、ガイドブックやインターネットで情報収集。
また、沖縄在住の知人ともメールをやり取りして、1次会はGosso Gozzo 久茂地店、2次会はライブハウス・チャクラと決めた。
チャクラには、1ヶ月ほど前に予約を入れたが、その時点では「
琉球舞踊、エイサー、空手古武道演舞他」が演目の予定で、出演者その他詳細はわからないとのこと。
ご存知の方も多いと思うが、国際通りのチャクラは
喜納昌吉のお店で、うまくあたれば、彼やチャンプルースの出演も期待できる。

いよいよ当日、通りに面した入り口では、若い女性の従業員の呼び込みとともに、「喜納昌吉&チャンプルース」出演の張り紙が目に入る。
「ラッキー!」
クリスマスはやはり、帰省をしてネクタイをはずし、ホームグラウンドで雄たけびか。
店内に入ると、いきなり喜納昌吉ご本人が握手でお出迎え。
9:00頃から彼のステージが始まった。
オープニングの“♪東崎”では、三線のチル(弦)が切れんばかりにはじく音が心に響く。
数曲目からは、女性2人のエイサーをアレンジしたような踊りが客席に混じり、“♪ハイサイおじさん”では、客席総立ちの盛り上がりと化す。
そして、“♪花”。
ステージのバックには、「すべての武器を楽器に」に毛筆のロゴが掲げられ、“♪花”とともに彼のメッセージを浴びる。
(ちなみに、CDを購入した際のサインにも、「花」の一文字。)

これまでも何度か喜納昌吉のステージを見てきたが、今回は5年ぶりだろうか。
今回のライブを見る限り、かつての攻撃的なステージが少々なりをひそめ、その分癒し系の曲調が増えてきたように感じた。
少し齢を重ねたせいか、それとも、参議院議員として二足のわらじを履く疲れか。
いやむしろ、故郷に立つがゆえ、肩の力が抜けた、元来沖縄民謡がもつやわらかさが前面に出ているのかもしれない。
Merry Christmas,drink to Naha!

by くりんと 



ライブハウス・チャクラ
那覇市牧志1−2−1(国際通り) モルビービル2F  рO98−869−0283

Guitar Case 51

Guitar Case > 2005

2004年流行語大賞

 

2004年の流行語大賞(『現代用語の基礎知識』編)は、 以下の通りに発表された。
私的には、流行語大賞くらい、ライブドアの堀江社長にあげたいが、小学生から大人までの幅広いうけ方でいうと、「チョー気持ちいい」になるんだろう。

流行語 発信者
大賞 チョー気持ちいい アテネオリンピック水泳代表選手 北島康介
トップテン 気合だー! アニマル浜口
サプライズ 自由民主党幹事長 武部勤
自己責任 該当者なし
新規参入 ライブドア社長 堀江貴文
セカチュー 作家 片山恭一
中二階 参議院議員 山本一太
って言うじゃない… ○○斬り! …残念!! 波田陽区
負け犬 酒井順子
冬ソナ チュサン役 萩原聖人/ユジン役 田中美里

年齢層の幅広い支持なら、ギター侍も負けてはいなかったろうに、相手は金メダリストだから、残念!
昨年は、同じお笑い系で、テツ&トモの「なんでだろう〜」がトップテンに入っていたが、この手のギター等を使った漫談・世相風刺は、けっこう伝統がある。

私の中(記憶)では、
吾妻ひな子の“おんな放談”(三味線片手に、「ハハッ〜、ノンキだねえ〜」とノンキ節)
牧伸二の“ウクレレ漫談”(ウクレレ片手に「ああ〜いやんなっちゃった、ああ〜ああ〜おどろいた」)
堺すすむの「なぁ〜んでかフラメンコ(フラメンコギターのリズムで「なぁ〜んでか、それはねえ〜」
テツ&トモの“なんでだろう〜”(「なんでだろう、なんでだろう、なんでだ、なんでだろう〜」)
波田陽区の“ギター侍”(「って言うじゃない」「… ○○斬り!」「 …残念!」)
と流れてくるがどうだろう。

これらの芸風は、庶民の側に立った世相風刺・権力風刺を身上とし、江戸時代以来の川柳や狂歌にも通ずる奥深さがあるはずだが、吾妻ひな子や牧伸二はともかく、堺すすむ以降は、ナンセンス・ネタに終始し、「ハチの一刺し」はもはや消えうせている。
そこへ来て、今年にわかにブレイクした“ギター侍”。
風貌は、幕末の人斬り以蔵か(坂本竜馬はたやすく人を斬らない)、黒澤映画の三船敏郎演じる『用心棒』を思わせるような着流しで、刺客の雰囲気をけっこう出している。(正解!)
なら、少しは志を持って、ちょっとは骨のあるやつの命をねらいに行くのかと思えば、(TVで見る限り)舞台の上の芸能人ばかり。
しかも、最後には、斬った方への罪滅ぼしなのかどうか?、自らの切腹でステージ上のオチとする。
私にとっては、「残念!」 。
せめて、ネタだけでも、小泉さんやブッシュさんを斬るくらいの、気骨がほしかった。
もちろん、競争の厳しい芸能界で、ここまでのしあがってくる術として、かのネタに行き着いたのだから、「エンタの神様」の前ではNo.1。
(応援として)NHK紅白出場のお墨付きも得たのだから、芸人としては絶好調の1年。
しかし、「これから仇討ちの刺客たちが待っている、恐ろしき芸能界」、って言うじゃな〜い!

by くりんと