Guitar Case 20

Guitar Case > 2001

披露宴芸に拍手喝采の理由

久しぶりに披露宴に招かれた。
こうした場でのお祝いの余興といえば、一昔前までカラオケが定番だったが、この度は、楽器の生演奏に加え、ピアノでの自作曲の弾き語りも聴かせていただいた。
新婦の友人が結婚のお祝いに作った曲のようで、この日のために一生懸命練習してきた様子もうかがえ感動した。
その方に、「よかったですよ」と声をかけるタイミングを見つけることはできなかったが、心から拍手をした。
友人の結婚の喜びを楽器で表現したり、歌にして贈るなんて、日本人の文化レベルも高くなったものだ。

そういう私も、これまで何度となくギターの弾き語りで、友人の結婚のお祝いをしてきた。
大きなウッド・ベースをかかえて仲間と駆けつけた時には、その姿だけで感動してもらった。
そうした快感が、今もなおバンド活動を続けている出発点なのかもしれないが、こうした披露宴芸でいただく拍手や感動の言葉というのは、けっこう曲者で話を10分の1以下にして聞く必要がある。
二人の若者(新郎・新婦)があらたな人生の門出に立ち、父や母がその二人を見送ろうとしている場面に立ち会ったとき、多くの人々は感動するタイミングを計っている。
こうした非日常な空気の中では、ちょっとばかり気のきいたはなむけの言葉(たいがいは主賓クラスがやってくれる)や、親友・悪友ぶりが発揮される芸に、それまで準備しておいた感動の堰が切られる。
したがって、その人の話芸や歌、演奏そのものにスタンディング・オベイションがなされたと勘違いしてはいけない。
多くの人々は、クライマックスにやってくる父や母の涙に感動するためのテンションを高めているのである。

私は、ここにいい舞台(ライブ)をつくるためのヒントを得た。
大切なのは、空気である。
幕が開くまでに、あらかた勝負はついているらしい。

by くりんと 

Guitar Case 19

Guitar Case > 2001

芸術は、イメージと技術のバトルだ

ものづくりが好きな友人と、デザインをイメージするのが好きな私とで、第二の人生に向けて、二人でチームを組んでお互いの長所を活かし合いながら、ステンドグラスなどのクラフト工房をはじめようかという話になった。
この話を、日本画をやっている別の知人に紹介すると、「ものづくりは、"イメージ"が走りすぎて"技術"がなかなか追いついてこれないのが常ゆえ、二人でやるとなかなかうまくいかないだろう」と忠告してくれた。
芸術の難しさは、さしずめ、「"イメージ"とそれを具現化する"技術"との戦い」ということだろうか。
芸術家たちがよくやるグループ展などでも、やがて、個々のイメージの速度差が生れてきて、グループとしての"イメージ"を共有しにくくなるとも聞いた。

私自身、この知人からの助言を、音楽活動に置き換えて解釈することができた。
曲がイメージされ、やがて、その曲が演じられるには、およそ次の3つのパターンがあると考えられる。
@  曲をイメージし、自分一人で演じる。
A  曲をイメージし、グループで演じる。
B  曲をイメージし、第三者が演じる。

"イメージ"というのは、元来、突っ走る性格を持っている。
@の場合、己のイメージの限界あるいは技術の限界が、いずれブレーキとなる。
ただ、最近は、コンピューター(打ち込みなど)によって、"技術"の部分がかなりカバーされるようになった。
Aの場合、つくり手と演じ手のバランスがうまく取れている間はいいが、つくり手のイメージがなおも走り続け、それに演じ手側が応えきれなくなったり、あるいはグループで共有できなくなると、"解散"ということになる。
ビートルズをはじめ、多くのバンドが10年前後で解散しているのは、むしろ自然な成り行きかもしれないし、サザン・オールスターズなどは、充電期間という方法によって、うまく寿命を延ばしているかのように思う。
Bの場合、自分のイメージに近い演じ手を求めることになり、イメージどおりの演者に出会ったときは、つくり手冥利に尽きることだろう。
小室哲哉が、華原朋美や安室奈美恵ら小室ファミリーのプロデュースをやったり、自らgloveを結成したりしているのがその例で、つんくなどは今やモーニング娘を通しての創作活動の方が、きっとハマっているのだと思う。

私自身、イメージが突っ走るタイプで、技術は後からついてくるものと考えてきたし、これまでも何とかしてきたという自惚れがある。
それが短所でもあり長所でもあると心得ているのだが、仲間とやるバンドに関しては、その楽しさ・難しさを一喜一憂している次第である。

by くりんと 

Guitar Case 18

Guitar Case > 2001

祝・ドリフターズ紅白出場

2001年の大晦日を飾る紅白歌合戦の出場者が決まった。
『明日があるさ』でウルフルズと吉本オールスターズが選ばれたのは、今年を象徴している感じだが、私の世代には朗報の、ザ・ドリフターズが選ばれた。
意外にも初出場らしい。
そう言えば、当時は、児童・生徒に見せたくないワースト番組のレッテルを張られていたなあ。
しかし、一時代を築いたのはまぎれもない事実で、『8時だよ全員集合!』の高視聴率に加え、私などは数々のヒット曲にこそ愛着がある。

 


『ズンドコ節』をはじめドリフターズの曲って、けっこうエンヤトットじゃありませんか?
ついでに、私自身、クレイジーキャッツも大好きだが、『スーダラ節』をはじめ、彼らもけっこうエンヤトットです。
私の音楽のルーツは、ここらへんだったりして。
実は、『ズンドコ節』や『スーダラ節』みたいな曲にもすごくあこがれていて、本気でああいう曲を模索している。

彼らは、もともとミュージシャン。
ビートルズの来日公演の時も、名誉ある前座を務めた。
高木ブーに至っては、ミュージシャンになるつもりがコメディアンをさせられて、当時は、ずいぶん苦痛だったらしい。
で、今では、ハワイアンのバンドを組んで、ウクレレをやっている。
NHKの『趣味悠々』と言う番組でも、ウクレレの講師を勤めていたが、私も、1本買ってしまった。
ちなみに、いかりや長介もいい歳のとりかたをしている。
役者やったりCMに出てたり、今の顔が大好きである。

紅白では、期待に応えるべく、やっぱりドタバタ劇をやるのだろうけど、私の希望としては、晴れの舞台でミュージシャンのドリフターズをきどってほしい。
でも、志村研が入ると、やっぱりひげダンスやバカ殿になるんだろう。
と言いながら、テレビの前で笑っている私を想像した。

by くりんと 

Guitar Case 16

Guitar Case > 2001

ジョン・レノン・ミュージアム

昨年(2000年10月)オープンした、さいたま市にある「ジョン・レノン・ミュージアム」( http://www.taisei.co.jp/museum/ )を訪れた。
ジョンの生涯をたどるように、テーマごとに分かれた9つのゾーン(部屋)を順にくぐりぬけて行く設定で、ジョンゆかりの楽器・衣装・ビデオなど、オノ・ヨーコ氏所蔵のメモラビリアを中心に約130点が展示されている。
ジョン最愛のオノ・ヨーコ氏の正式な許諾を受けたということで、コンセプトや展示品そのもは確かなミュージアムとふんだ、のだが・・・・・。

さすがヨーコ氏ならではと思われるジョンの作詞原稿や愛用のギターの前には、一人二人と釘付けになっている風景も見られたのだが、残念ながら、今の私にはさ


ジョンのダコタハウスの一部を再現(ゾーン9)

ほど興味がない。
それでも、何に出会えるんだろうか、また、1500円という高い入館料の分はと、目を凝らし進んで行った。
一人ひとり感じ方は違うのかもしれないが、ジョン・レノンという存在が、博物館入りすることによって、過去の存在に、しかも神様に祭り上げられてしまっているようで、徐々に複雑な気分になってきた。
少なくとも、私にとって、彼は今も生きている存在だ。
ジョンと対話するには、彼愛用のギターでも、Tシャツでもない。
「ジョンの歌こそが、ジョンなんだ」とそのうち悟るようになった。

博物館なら、彼が多く残している絵画やイラストといった美術作品の展示があってもいいかなと思ったが、それらはあまり見られなかった。
9つのゾーンをまわり終えた最後の部屋に、彼の語録集をプリントした、天井までとどくような大きなボードがあリ、椅子も添えてあった。
私がこのミュージアムで、最も気に入ったコーナーである。
それらのメッセージは、ミュージアム・ショップで詩集としても販売されている。
最後に、その一節を紹介しよう。

by くりんと 
 

人生ってきついよね 食ってかなきゃならないし 気配りもしなきゃならないし 人を愛さなきゃいけないし
一人前にならなきゃいけない すごくタイヘンだよ ときどきメゲそうになるよ

年をとるってのもいいもんさ  疑問に思っていたことが 
だんだんわかってくるんだよ

ぼくといっしょに年をとってくれ ふたりいっしょなら 
どんな運命でも乗り越えられる ふたりの愛はホンモノだから

みんな不思議そうにきいてくる ハデに成功したころがなつかしくないのか?って みんなわかってないな
ぼくはもうノセられないよ なにが大切かわかったんだ

そんなにガンバらなくていいんだよ たまには息ぬきが必要さ 
人生はかけぬけるもんじゃないんだ

ぼくがこれまでどうやってきたかおしえられるけど 
きみがこれからどうするかは 自分で考えなきゃ

by John Lennon  

Guitar Case 15

Guitar Case > 2001

音楽は宗教?

何度も同じミュージシャンのライブに通う、いわゆるちょっとした”追っかけ”状態になった経験は、音楽好きの人なら、だれもがおもちだろう。
私も、岡林信康、河島英五、上々颱風、憂歌団、桂枝雀、桂南光、中村勘九郎など、ひところ足しげく追っかけた。(なぜか、女性がいないが!)
今思い返せば、こういうとき、その人のすべての曲(アルバム)を知りたいと思うし、その人の一言一句、ひいては生活スタイルまで目を耳を奪われてしまう。(っていうことなかったですか?)
こうした行為をとらえて、あたかも宗教に取り付かれた状態に似ている、と言う人がいる。
最近の新興宗教と言えば、あまり評判よろしくないから、例えが悪いかもしれないが、おもしろい見方だと思う。
ミュージシャンというアーティストは、こうした熱烈なファンによって支えられ、その才能を育んでいくのだろうし、逆にいえば、ファンが、ミュージシャンをつくり育てているのかもしれない。
最初は、その容姿やキャラクターによってファンが増えるが、そのうち彼ら(彼女ら)の発する音楽やメッセージが、そのファンを媒介として、広く大衆(時代)のものとなっていくというパターンも珍しくない。

そうした視点で言えば、わがエンヤトット一座、若さと容姿で10代・20代の女性をひきつける魅力なんてないし、いい音楽さえ奏でていれば、という松阪や佐々木のようなストレートも、今のところ持ち合わせていない。
主催者側の努力を除けば、これまで、メンバーのささやかな人間関係によって客席を埋めてきた。
もちろんその中には、私たちを永く、温かい目で支えてくれている人たちもいるのだが、なかなか信者の多い”宗教”にはなれないでいる。
私どもの素性を知る人たちにとっては、決して教祖に見間違うことはないのであろう。(特に、身内にその傾向が強い。)
もちろん私のカリスマ性の問題もあるが、そのカリスマ性もいい加減なもので、スポットライトやブラウン管(今や液晶か)によって、いくらでも偽造できるものと信じて疑わない。

ライブとは「非日常」のワン・シーンで、演者も聴衆も、「日常」から遊離したところでニュートラルな精神になり、お互いのエネルギーを受け止め合う。
そして、そのひと時の享楽を「日常」という明日からの活力に置換していくところにおいて、ライブは成り立つと考える。
そういう意味では、いっそのこと、だれも知らないところで演じたほうが、「非日常」を演出しやすいし、我々の演じ表現するところを色めがねなしで受け止めてくれるかもしれない。
しかし、私どもの見知らぬ土地に、そうそう受け皿があるわけではなく、やはり我々は、地域密着型のバンドとして、きちっと片足を置かなければならない。
それでも懲りずにライブに来てくれるのは、やはり縁者なのである。
決して、教祖になりたいわけではない。
音楽を宗教に見立てるつもりもない。
ただ、より多くの人たちと、できれば私たちの音楽で、ライブで、つながりをもちたいだけである。
ここはやっぱり、ストレート勝負だろうか?

by くりんと 

Guitar Case 13

Guitar Case > 2001

エンヤトット一座の新境地

この夏、エンヤトット一座のライブで、島根県の広瀬町という町を訪れた。
人口9600人、松江市から車で30〜40分の農村である。
歴史的には、12〜13世紀ごろより、尼子氏によってひらかれた城下町であるが、その繁栄は、江戸時代のお城の移築によって、松江にとって代わることとなる。
今回のライブは、そうした町の歴史を大切になさっている尼子太鼓のみなさんの尽力によって実現したもので、当日は150名近くの町民の方々にお越しいただくこととなった。

私どもが、初めての土地を訪れた際に、一番気になるのは来ていただいた方の年齢層だが、こちらでは老若男女というか、比較的平均年齢が高かったように思う。
普段は、20〜40代の方を対象にしたライブが多い中、この日はうまく受け入られるどうかという不安もあった。
しかし、いざライブが始まると、そうした心配はよそに、数曲目にはノリノリの手応えを感じた。
「大和五條の空の下」では、尼子太鼓の方にも締め太鼓で参加していただき、主催者の意図する島根と奈良の文化交流もにわかに実現したかと思う。

そして、ライブのあとは、今回のステージに汗を流していただいた方との大切な懇親会。
実は、ここまでが我々のライブであって、地元の方と杯を交わし話を交わし労をねぎらいながら、本日の通知表をいただくのである。
こうした席での我々への賛辞は、7割減にして聴く謙虚さを持ち合わせているつもりだが、意外にや、50〜60代の方々からの反応が好ましいものであった。
「ロックというもの、バンドというものを、生れて初めて生で聴いた。今まで、うるさいとしか思わなかったこの種の音楽が、こんなに楽しいものだとは知らなかった。感動した。」
要約すればこうした声が、そうした年代の方々からの反応である。

そう言われれば、私どもにも心当たりはある。
1つは、我々が目指している音楽性に、老若男女を問わない(つもりの)受け皿があるということ。
確かにエンヤトット一座の音楽は、今どきのロックにとっては縁遠い年代の方々との、橋渡しの役割を果たすことができるのかもしれない。
もう1つは、地域性。
広瀬町の方々も、松江まで行けばそうしたプロのステージにも触れることができるはずなのだが、その手の情報に常にアンテナを張って、わざわざお金を出して見に行くという環境や習慣が、やはりある年代の方には身近でないのかもしれない。
とするならば、「宅配のピザなら食べてみようか」という窓口の広さが、年齢を問わず受けているように、「音楽の宅配」という我々のフットワークの軽さによって、こうした町のそうした年代の方々と、ロックというコミュニケーションを取り合うことができるのかもしれない。

エンヤトット一座の新境地、ここにあり!

by くりんと